カスパロフがコンピューターに負けてから、どうもチェスのゲームにおけるコンピューター対人間、つまりどちらが強いかなどという話が盛んに行われているらしい。しかし改めて考えてみると、例えば自動車が発明された時、陸上競技の選手が自動車に勝てるかどうかなどという議論が為されたのだろうか。元来が、機械は人間の力を保管するためにあるのだから、ある分野で人間に勝るのは当然である。どうしてチェス(囲碁などは、まだコンピューターは人間に勝てないとか聞いている)でだけこんな話が起きるのだろう。
実はそもそもこの話は、最初からおかしい。チェスでカスパロフに勝ったのはコンピューターではなく、プログラマーとコンピューターのタッグチームのはずだ。もしもコンピューターが、単にルールを教えて貰っただけで、自分で勝手に必勝法を見つけたのならともかく、思考機械(この名前はなかなか象徴的ではあるが)じゃあるまいし、まさかそんなことが出来るとは思えない。結局は、コンピューターにチェスを教えた「人間」がいるはずで、コンピューターはメモリーの正確さ(これもまた、コンピューターの専売特許ではない。文字が発明された時、「記憶力では人間は本に勝てない」と嘆いた人がいたのだろうか)と計算の速さにものを言わせて、その指示に従っただけである。コンピューターで重要なのはハードではなくソフトなのだ。そしてそのソフトは、プログラマーと言う人間の思想や思考の反映に過ぎない。
ということで、ここではそれを深く考えず、単純に「コンピューターが人間に勝った」という通俗的な認識だけを取り上げた上で、どうしてそれがそんなに重大なことだと思う人がいるのか、についてのみ考えることとする。
さて、職場のある同僚の意見では、それはチェスが知的なスポーツだからだそうである。つまり、かつては人間がチャンピオンであった(というか、そもそも人間にしか出来ない)分野で、ついに人間を負かす存在が現れたからだというのだ。
先の自動車と陸上競技の選手について言えば、走る速さなどは、もともと人間は地球上でトップではない。馬やチーターなどと競走して勝てる人間がいるはずもない。だから自動車や飛行機の出現は、むしろ知恵の力で他の動物に勝てる手段を手に入れたことであり、これはとりもなおさず、人間が地球上で「知恵」におけるチャンピオンであることを意味する。すなわち、その発明した道具は、我々の肉体の力を保管するものとして存在するわけである(何だ、「人類保管計画」なんて、文明が存在し始めた時から、既に始まっていたわけか)。
だから、自動車が人間より足が速いのは当然であり、それはむしろ、「知恵のシンボル」として他の動物の上に君臨するためにある。
コンピューターはこれらと少し事情が異なっている。この機械は人間の「知恵を保管する」ものだ。多分、歴史上、人間がこの分野で他の生物に負けたという話はない。したがって、この機械がなくても、人間は地球上のチャンピオンで在り続けられる(この場合、「地球上のチャンピオン」という言葉が安易なものであることはわかっている。卑しくもSFファンであるからには、この言葉には慎重でなくてはならない。ここではあくまで、常識的な一般の価値観の中でのものである)。
もちろんコンピューターは人間の発明したものであるから、これは確かに、知恵の象徴の一つである。しかし前述のように、人間が他の生物との生存競争に勝つためには、明らかに「必需品」ではない。その上に更に厄介なのは、この「人間の知恵のシンボル」の最高峰に位置するかも知れないコンピューターが、実はそれ自体「知性」を持ちうる、あるいは知性を持つことを目指して作られた機械であることだ。多分この点が、あるタイプの人達の気に障るのだろう。何せ、知性において人間を上回りうる存在が現れたのだから(キリスト教の思想などが絡むと、更にこの話は厄介になるであろう)。
しかしちょっと考えて欲しい。チェスは何のためのゲームなのか。あなたは「勝つために」チェスをやるのか? そうではないのではありませんか? そう――答は簡単、勝とうが負けようが、それが楽しいからチェスを指すのである。少なくとも私はそうだ。
もちろん、チェスもゲームであるからには、勝ち負けは重要な要素である。あまりにも負け続けて面白いはずがない。だから人は、勝つための努力をする。しかし逆に考えて、自分があまりにも強くなり過ぎ、いかなる相手でも数分で楽々任せるようになってしまったら、果たしてそれが楽しいだろうか。現に私は、家族とはチェスをやらない。私以外は完全な素人でせいぜいルールを知っている程度。その上興味もないので、向こうもつまらないだろうし、私も何の苦労もなく勝てることが最初からわかっているのでは、まるで面白くない(教育のためなどを抜かして、まさかリトルリーグと本気で戦ってゲームを楽しめるプロの野球チームはあるまい)。楽しくもないのに、そんなチェスをやっても仕方がない。
したがって、現状のコンピューターは、未だチェスで人間に勝ててはいないのである。チェスの持つ本質的な目的である「楽しむこと」、それが(多分)出来ないからだ。哲学的な意味での「心」というものの本質というのは、人工知能が現れた時は重大な問題の一つになるだろうが(いや、既になっているのか)、少なくとも人間がスイッチを入れれば、相手がどんなに弱くても平気でプレイをしてくれる機械が、それを楽しんでいるとは思えない。チェスは、楽しんでこそ何ぼのゲームなのである(プロはそうも行かないのかなあ)。
したがって、私は今「フリッツ」とゲームをして勝てたことは一度もないが、別に悔しくはない。自分の棋力がこれに勝つだけのものではないだけの話だし、むしろ私は、フリッツを、いずれ人間と対戦する時の練習のために、一種のピッチングマシンとして使っているからだ。ピッチングマシンは作り方によっては、人間のピッチャーより速い球を投げて当たり前であるし、そもそもそうでなくては意味がない。
これがフリッツが、
「あなたは弱過ぎるからつまらない」
とでも言ってくれば話が違って来るのだが、それだってプログラミング次第だ。つまりは「楽しんでいるように見せかけている」だけである。ある程度ひどい負けを繰り返すと、
「他で練習をして強くなってから、私と対戦しなさい」
と言ってくるソフト。そんなプログラムもありかも知れないが、これでは売れないだろうから、作られることもないだろうなあ。
いや、それともいずれは――あるいは既に――パソコンも心を持つことになるのか? プログラムとは、それ自体が心の一種だと言う論理もありうる。アンドロイドは電気羊の夢を見るのだろうか。その時、初めてコンピューターは人間に勝ちうるのだが……。しかしここでは、それを深く考察することは避けよう。
更に――。
百歩ゆずって、本当にそれ(チェスを楽しむ)が出来るコンピューターが現れたとしよう。その時は、素直に祝福してやろうではないか。人間が作り出した機械が人間と同等に並ぶか、あるいは乗り越える。子供が親を凌駕するのは喜ぶべきであり、決して悪いことではない。
このような話をすると、当然今度は、
「人間は我々にチェスで勝つことも出来ない劣った存在だ」
とか何とか言い出して、我々を馬鹿にしたり反乱したりするコンピューター(SFによくある、あれである)の問題が取り沙汰されるかも知れない。だが、それに対する答も簡単である。
自分たちを産み出し育ててくれた人間という存在、それに感謝することも大切にすることも出来ないコンピューターなど、所詮人間に劣る存在ではないか。心ある人間は、たとえ自分が能力においてそれを凌駕しようとも、親や師匠を大切にする。それもまた、知性のなせる技である。更に、当然のことながらそれ――親を尊敬しない機械――を創りうるのもまた、人間自身なのである。つまりは子育てに失敗しただけの話だ。フランケンシュタインは、単に親子関係のある形を物語りにしたに過ぎない。
文明に罪はない。それを作り出した人間がそのすべての責任を負う。しかし我々は、「うまく育てる自信がないから」というだけの理由ですべての子孫を産む努力を止めはしない。コンピューター――すべての文明――もまた、我々人間の可愛い子供たちである。それがどのように育つかというのは、明らかに「親の責任」だと思う。