高名の依頼人再び
Another Adventure of the Illustrious Client
一九〇二年十月十一日付、クイーン・アン街の自宅にて記す。この原稿はおそらく発表出来ないと思う。理由は、内容を見れば明らかな通りである。だが、やはり真実はどこかに書いておかねばなるまい。もしかしたら、いつかはこれが誰かの目に触れることもあるのだろうか。
――ジョン・H・ワトスン
「いい所に来てくれた、ワトスン君。大変なことになった。どうやら、僕は重大な過ちを犯していたらしい。今からでも遅くはない。行って、何とかしなくてはならない」
ドアから顔を出すなり、ホームズがこういった。例のグルーナ男爵の事件後、初めてベーカー街を尋ねた時のことである。手には、今届いたばかりなのだろう、新しい電報の頼信紙が握られている。
「行くって、どこへだい」
「決まっているじゃないか。あの事件の真の黒幕、アデルバート・グルーナ男爵とキティ・ウィンタを監獄へ送り、僕には頭の傷を負わせ、君には少々の危険と不愉快な思いを与えた張本人、冷酷なるヴァイオレット・ド・メルヴィル嬢の所だよ」
「何だって?」
「そうさ、どうして今まで気がつかなかったのか。高名なる依頼人には申し訳ないが、僕が真実断罪せねばならない人間は、あの高慢ちきな令嬢その人だったんだ」
ホームズは、手に持った電報を手渡した。それには、
メルヴィル嬢ハ、地中海ニ行ク前ニオーストリアヲ旅行シテイル
――ラングデール・パイク
と、書いてあった。
「これがどうかしたのかい」
「恐るべき陰謀だよ。もちろんグルーナだって悪いには違いないが、それにしてもこの女だけは許せない。幸い、まだ遅くはない。行って、向こうの出鼻をくじいてやろう」
私は、バークリ・スクェアにあるメルヴィル将軍の家については、ホームズから話を聞かされていただけだが、行ってみると、なるほど恐ろしく古い格式のある住まいだった。取り次ぎの者に名を告げると、メルヴィル嬢はちゃんと家にいて、私たちはすぐに大きな居間に通された。ホームズとミス・ウィンタが最初に彼女と会見したという、あの部屋である。
「ホームズさん、まだ私に何か御用がおありですの。もういいかげんにして下さいまし。私、これからアデルバートの所に、お見舞いに行くところなんですのよ。ああ、かわいそうに。さぞ、痛かったことでしょう。あなたやお友だちのお医者様にスパイや泥棒まがいのことをされた上、あの変な女の人に硫酸まで浴びせられて。私、今度ばかりは父が何といおうと、あなたたちを訴えます。そして、かわいそうなアデルバートに代って、あなたたちに正義の手を下してもらいますわ」
令嬢は私たちを見るや否や一気にこう捲くし立てると、その美しい目で、キッとホームズを睨みつけた。まさに、雪の女王が怒っているという風情であった。ところが、ホームズはそれにはまったく動ぜず、冷やかにこういった。
「ということは、あなたはまだ、グルーナ男爵との婚約を解消する気はないとおっしゃるのですね。あの日記をお読みになったにもかかわらず」
すると、メルヴィル嬢は、
「ほほ」
と勝ち誇ったような笑い声を上げて、そばの火掻き棒を取り上げると、暖炉の中にあった紙の灰の束を突き崩した。
「こんな物が、私に対して何の役に立つとお思いでしたの。ええ、読ませていただきましたとも。大変に面白うございましたわ。よくもまあ、こんな作り話を――。確かに、この中にはずいぶんとひどいことが、アデルバートの筆跡で書かれてはいましたけれど、私だって莫迦ではありません。そちらの方……」
ここで彼女は、軽蔑に満ちた目で私の方を見た。
「ワトスン博士の書かれた本くらいちゃんと読んでおりますから、ホームズさんが探偵として、いろいろと変なことがお出来になるのはちゃんと存じております。例えば、他人の筆跡を真似て何かを書くとか……。この日記があなたの手から渡ってきた物である限り、真剣に取り上げる価値のないことくらい、誰にだってわかりますわ」
私は、ホームズと私があのような危険まで冒して手に入れた日記が、かくも簡単に燃やされてしまったことに対して少々腹を立てていた。が、それもまた、この令嬢の頑なな態度の前には、氷山に対抗する蝋燭といったところだった。さても、ホームズとキティ・ウィンタ嬢の説得も、まったく効果がなかったわけである。
「そうですか。では仕方がありません。もう、何をいっても無駄なようですから、さっさとここは退散して、どこか別のところに解決をゆだねるとしましょうか。グレグスン警部が喜ぶかも知れない。さあ、ワトスン、次は警視庁に行くよ。あそこに頼んで、プラーグの警察にこのお嬢さんの足取りを照会してもらうとしようや」
ホームズがこういってドアの方に歩き始めると、初めて令嬢の顔に変化が現れた。彼女はさっとドアの側に駆け寄ると、後ろ手にそれを閉めてホームズを睨みつけた。
「何とおっしゃいましたの、ホームズさん」
「なに、大したことじゃありませんよ。ただ、あなたとグルーナ男爵が初めて会ったのは、地中海を廻遊するヨットの中ということになってますが、実はそれは真っ赤な偽りで、本当はあなたがプラーグに旅行した時だということを、知り合いの警官に確認してもらいたいだけです。ついでにいうと、グルーナの前の奥さんが事故で亡くなったり、その時の唯一の目撃者が奇怪な死を遂げたのが、その直後だということもね。さ、そこをどいて下さい」
ホームズは恐ろしい表情で令嬢を睨みつけた。その顔には、いかなる悪人だとて抵抗出来ないような、強い意志がみなぎっていた。彼女はと見ると、一瞬気絶でもするのではないかという顔をしたが、すぐに立ち直って敵意に満ちた視線でホームズを睨んだ。ホームズは、彼には珍しくあからさまに軽蔑したような顔でいった。
「その通り、ようやくおわかりのようですね。私のちょっとした名声がまんざら出鱈目でもないことが。だいたい始めから変だとは思ったのですよ。いかに愛情に目がくらんだとはいえ、回りのあれだけの説得にまったく耳を貸さず、あまつさえ、キティ・ウィンタ嬢の不幸な経験すら、グルーナの都合のよいように解釈なさるなんて。あなたはそれを愛情の故だとおっしゃるかも知れません。しかし、一度別の見方をしてしまえば、問題は驚くほど簡単になってしまいます。あなたはプラーグに旅行中、グルーナに出会った。そして彼に良からぬ風聞があることを知り、自分は絶対に疑われない方法で彼の奥さんの財産を手に入れる方法を思いついたのです。多分、この点についても間違いはないと思いますが、メルヴィル家の経済状態はだいぶ苦しいのではありませんか。外ではそんなでもないように取り繕ってはいるようですが――。おや、話したくありませんか。でも、そのテーブルに置かれている請求書の山は私の推理を裏書きしているようだし、原因はあなたの無駄使いにあるのも確かなようですよ。まあとにかく、あなたはグルーナに近づいて、二人で彼の奥さんを殺すことにした。そして首尾よく目的を達成すると、何食わぬ顔でイギリスへ戻り、彼と示し合わせた場所で初めて会ったような顔をする。そのときすでに、彼の前の奥さんと目撃者は亡き者になっています。グルーナが殺したという証拠が上がらないのも当然だ。本当の犯人は、被害者の二人とは何の関係もない、行きずりのイギリス人女性だったんですからね。さてあなたはグルーナと付き合いを始め、計画通り婚約にまで持ち込んだ。それにしても、その後はどうするつもりだったんですか。グルーナとしては、メルヴィル家の財産が目当てだったのかも知れないが、そんなものはありゃしない。もしかすると、今度はグルーナが殺人の被害者になるということなのかも知れない」
ホームズはここまでのことを、静かに、しかし断固とした口調でいってのけた。令嬢はと見ると、始めのうちこそ不安そうな顔をしていたが、しかしすぐに勝ち誇ったような表情を取り戻して、キッとホームズを睨みつけた。
「お話は大変面白うございました。評判通り、大変な想像力がおありですのね。でも、ホームズさん、それは単にあなたがご想像なさっただけのことであって、何一つ証拠なんてないではありませんか。警察にいらして何をお話しなさろうと勝手ですが、そんな夢みたいなお話、どなたも信じないでしょうよ。確かに私はプラーグに旅行をしましたが、だからといってアデルバートにそこで会ったかどうかなんて、どなたにもわかりはしませんわ。あら、どうかいたしまして?」
私はこの時のホームズの表情を一生忘れないだろうと思う。ホームズは何かにとても驚いたように目を大きく見開くと、どうやら重大なことに気がついたらしく、つかつかと令嬢の前を横切って、そばの棚に近づいた。
「数学に興味がおありなのですか」
「えっ?」
「いや、そこの本棚に珍しい本が置いてあるからですよ、ほら」
ホームズはそういうと、棚に並んでいる書物の中から、一冊の茶色の背表紙の本を指差した。
「『小惑星の力学』――。死んだモリアティ教授の書いた物だ。おやおや、その隣にあるのは例の二項定理についての論文を自費出版した物だぞ。これらは僕も持っているんだが……。ふむ、『心理学の数学的応用――特に人の行動の確率的予想について』がある。確かこれはずっと前に絶版になっているはずだ。その他、普通にはとても手に入らないような高等数学の本が並んでいるが、どれもこれもモリアティ教授の著作になっているみたいだ。どうしてこの前に来た時は気がつかなかったんだろう。そうか、ここのカーテンが閉まっていたんだな。さて、メルヴィルさん。迂闊でしたね、私がここに来るとわかっていながら、カーテンを引いておかなかったなんて。これらの本は誰がお読みになるのですか。メルヴィル将軍かな。多分違いますね。お父上は軍の仕事一本槍の方だと聞いています。だとすると、まさか使用人ではあるまいし、この家にこれを読みそうな人は一人しかいない。あなただ。ほら、よく見て下さい。ここに口紅の跡がある。右手の小指からついたものだな。それにしても背表紙の傷み具合からいって、相当に勉強されたようですね。如何に時代が進歩したとはいえ、女性でこんなに数学をやる人は珍しい。確かに、マリー・キュリーという物理学者はいるが……」
今度こそ、メルヴィル嬢の顔には、本物の不安の影が現れた。
「だから……どうだというんですの」
「いや、たいしたことではありません。ただ、モリアティの組織が解体したとき、大物が何人か逃げてしまったのですが、その時、ポーロックという男が私にこんな暗号電報を送ってきているのです。『一つと三つのM』」
ホームズは昔を懐かしむようにいった。
「一つと三つのM。一つというのは明らかです。これはもちろん、モリアティを指している。問題は三つのMだ。前にワトスンにも話したのですが、私の犯罪者名簿は、Mの部に妙に大物が多い。モルガン、メリデュー、マシューズ。しかしこれらは、いずれもモリアティの組織とは無関係です。そもそもモリアティの組織の幹部には、社会的に地位の高い者が多かったのですが、この三人はどちらかといえば下層階級の出だ。さて、その後の必死の調査により、二人までは突き止めることが出来ました。一人はもちろん、セバスチァン・モラン大佐です。ワトスン君の本をよくお読みになっているあなたならご存じの通り、これはすでに逮捕されています。そして二人目は、被害者によって殺されたチャールズ・オーガスタス・ミルヴァートン。有名な恐喝王でしたが、今もいったとおり、彼に不幸な目にあわされた何者かによって射殺されてしまった。さて、あと一人は誰なのでしょう。私としても、これだけはぜひとも突き止めないといけないと思い、必死に調査してみたのですが、どうしてもわかりませんでした。実際、この人物はモラン大佐やミルヴァートンのように、目立った活動をしていなかったものですから。失礼、煙草を吸ってもよろしいですか」
ホームズはポケットからパイプを出して火をつけた。
「ワトスン君の記録にもあるように、モリアティの組織が解体したのは一八九一年、今から十一年前の出来事です。私の調べでは、あの時モリアティは大学町でよからぬ噂が立って、教授職を去らねばならなくなり、軍人相手の家庭教師をしていました。そう、この『軍人相手』というのがいかにも意味深です。もしもその時の生徒の頭文字がMだったとしたら――例えば、メル……」
ホームズはこの言葉を最後まで発することが出来なかった。何となれば、
「やめて下さい!」
というメルヴィル嬢の悲鳴に遮られてしまったからである。
「何を莫迦なことを。出て行って下さいまし。警察を呼びますわ」
「いいでしょう。だが、まあ、最後まで話を聞いてからでも遅くはないのではありませんか。その上で私を訴えるというのなら、それも仕方のないことです。とにかく私としては、ポーロックのいう三人目のMが、女性であったとしたらどうだろうかということを、改めて考えてみる必要があります。そうだ、もしかしたら、一つと三つのMというのは、三つは男性、一つは女性という意味だったのかも知れない。三人目が私の網にかからなかったのも当然だ。その人物は、当時まだ子供だったのだから。しかし、モリアティの教えたことだけはしっかりと心の中に根を下ろし、やがて発芽する。偉大なる犯罪者の最後の弟子として。これはどうやら、もう少し、あなたの回りを調べてみる必要がありそうですね。どうぞ、警察をお呼び下さい。たとえ私が牢屋に入ってしまったとしても、兄のマイクロフトがいる。かなりの出不精ではあるが、相手がモリアティの残党であるとなれば、力を貸してくれるでしょう。なにしろあの時、馬車の馭者までやってくれたんですからね。ところでモリアティ教授は、シャーロック・ホームズには気をつけろ、とは教えてくれなかったのですか」
もはや令嬢には、逆らう勇気が残っていないようであった。彼女の美しい顔は、明らかに敗北を認めていた。しかし、さすがにかの犯罪界のナポレオンが最後の弟子として見込んだだけのことはある。その気高さと意志の強さだけは、少しも失われていないようであった。メルヴィル嬢は、相変わらずの毅然とした態度で、
「何がお望みなんですの、ホームズさん」
と、冷ややかにいってのけた。
「何も――。私は事の真相を発表する気はありませんし、ワトスン君も同様でしょう。またしても重大な犯罪者を見逃すことになるが、メルヴィル将軍と高名な依頼人の心中を察すれば、公表は差し控えるしかありません。もしも、グルーナの前の奥さんの殺害について、誰かとんでもない人物が冤罪をかけられたりすれば別ですがね。グルーナはいずれにせよ罰しなくてはならない男です。ただ、キティ・ウィンタのことだけは考えてやらないと――」
ホームズは肩をすくめて見せた。
「もちろん、彼女のしたことはいいことじゃない。ただ、あなたのために良かれと思って親切な忠告をしたのに、それが全然受け入れられなかったので、かなり激していたのも事実です。彼女は否定するでしょうが、もしかしたらグルーナの顔をあのようにしてしまえば、あなたが思い止まると考えたのかも知れません。いずれにせよ、キティは明らかに被害者です。幸い、メルヴィル将軍と高名の依頼人の地位を以てすれば、いい弁護士を彼女につけることも可能でしょう。お父上とその方に頼んで下さい。キティを救うことに協力していただけるようにと。どちらにしても、あなたのご計画をこれ以上進めようとなさっても無駄です。シャーロック・ホームズがそう宣言します。グルーナとの婚約は取り止めたほうが賢明だということを。さもないと――」
ホームズは厳しい顔で令嬢にいった。
「あなたもまた、モリアティと同じく、私の力を思い知ることになるでしょう。これは、脅しではありません。そして、今後はモリアティのことは忘れて、改めて生活をやり直される事です。あなたの勉強された数学のように、答は一つしかありません」
この言葉に、メルヴィル嬢は怒りを露にしてホームズを睨みつけた。しかし、ホームズの鉄のような意志の前には、もはやどうすることも出来ないようであった。やがてがっくり肩を落とすと、
「わかりました」
と一言いって、そばの呼鈴を引いた。ホームズと私は、呼ばれてやってきた小間使いの案内で外に出た。
「僕が扱った事件の中には、女が犯人だった物がいくつかあったように思うが……」
馬車に乗ってから、ホームズがいった。
「うん、手持ちの事件記録にもいくつかのストックがある。これらは折りを見て、発表するつもりだ。もっとも、今回のは駄目だろうがね」
「ああ、そのほうがいい。もし発表するとしても、あくまでグルーナを悪者にしておくことだ。それが、高名の依頼人に対する礼儀というものだろう。だが、今回ほどの女性は二度と現れまいな。『あの女』でさえかなわない。まさか、こんな所でモリアティの影に出会うとは思わなかった。彼女は殺人を犯した上、グルーナさえ自分のために利用しようとしていたんだ。いかに奴の弟子だったとはいえ、まったく女って奴は――」
ホームズは額に手を当てて何事かを考え込むようにすると、やがて謎のような言葉を吐いた。
「……ヴァイオレット……ハンター、スミス、ウェストバリー、そしてド・メルヴィル……」
「え、何だって」
「いや、なんでもない」
彼の言葉の最後の方は、馬車の車輪の音のため、よく聞こえなかった。だが私には、ホームズが小さな声で、
「母さん……」
とつぶやくのが聞こえたような気がした。多分、空耳だったのだろう。ホームズはそのままがっくりと馬車の椅子に沈み込み、固く目を閉じた。こうして我々はバークリ・スクェアを後にして、ベーカー街の懐かしい部屋へと帰っていったのである。