内田昌之訳 SFマガジン1996年10月号
1995年に出版されたアンソロジー「Sherlock Holmes in Orbit」に収録された作品。CompuServe のホーマー賞短編部門を受賞したとある。だいたいのストーリーは、次のようなものである。
西暦2096年、宇宙空間に電波を発してもさっぱり応答がなく、異星人はいないらしいことがわかる。しかし、ドレークの方程式によれば、そんなことはありえない。いったい、異星人たちはどこにいるのか。そこでマイクロフト・ホームズ(といっても、シャーロックの兄ではなく、その時代の別人である)という科学者が過去からホームズとワトスンを呼び寄せ、この謎の解明に当たらせる。さて、ホームズが示した解答は?
最後のネタをバラしてもいけないと思うからここでやめておくが、はっきりいってちょっと唖然とした。ううん、説得力に問題があるなあ。
このくらいなら、ネタをバラしてもいいでしょう。要するに原因はホームズ自身にあるというのだ。それを一応は擬似科学にからめて説明しようとするのだが、そんな壮大な問題の原因がホームズ自身というのは、いかになんでも無理がある。選者の伊藤典夫氏は「論理の軽業」といっているが、そう呼ぶには、ちょっと玉乗りの玉が引っくり返ってはいないか。
シャーロック・ホームズのパスティッシュ・パロディの歴史は、今にして思えば「辻褄合わせ」の歴史だった。ワトスンの記録はあちこちに矛盾があり、説明不足のためにホームズの生涯は、穴だらけの板から向こうを透かして見ているような混沌の中にある。シャーロッキアーナとは、その隙間からしか見えない情報をもとに、全体を再構成する作業だ。そして、よく出来たパスティッシュは、それを小説の形で提供する。たとえホームズが火星人と戦おうとも、きちんと辻褄があっていれば、それなりに説得力が出るものだ。今回のこの小説は、まさにそのことを示す反面教師としての好例であったと思う。このアイディアなら、むしろホームズなんか出さないで書いた方が良かったんじゃなかろうか。原題の「君は見るだけで、観察ということをしない」というホームズの有名な台詞も生きていない。
とはいうものの、これはシャーロッキアーナとして読んだ場合である。SFとしての評価はまた別にあるのかも知れない。ただ、そのような見方をしても、ちょっとしたハチャメチャショートショートくらいの評価にしかならないのではないか。この手の出鱈目(けなしているのではない)には、「カエアンの聖衣」か「キャッチワールド」くらいの長さが必要なのかも知れない。