ヴァイオリニストの失踪

The Adventure of the Missing Violinist


 1902年に起きた出来事を手帳を繰って調べてみると、主だったものだけを挙げても、かの殺し屋エヴァンズによる偽札印刷機械事件だとか、ショスコム・スパニエルと死体置き場に関する奇怪な事件だとか、ハートフォード・ハウスの名画紛失事件だとか、どれも皆それぞれに異様な様相を呈したものばかりであり、一つとして平凡な内容は見当たらない。このうちでも特に最後の事件については、我がベーカー街からつい目と鼻の先にある美術館で起きたものであり、盗まれた展示品がホームズ自身の大伯父によって描かれた作品であったために、取り分け強く印象に残っているのである。これらの事件については私もいつかは発表するつもりでいるけれども、ことシャーロック・ホームズの発見した解決法の奇抜さという点においては、これからここに書こうとしているヴァイオリニストの失踪と王宮パーティの問題に勝るものはないと思う。
 そのころ私は結婚する直前の忙しさの中にあり、そうそういつもベーカー街の下宿に居続けることができない状態にあった。しかしその日に限っては、なぜか開業の準備の仕事も中休みで、私とホームズはもうすぐ来るであろう二人の別れのことを思いながら、一日を静かに過ごしていた。
 「おや、ワトスン。誰か呼び鈴を鳴らしたように思ったが……」
 ふとホームズが口からパイプを離して言った。
 「また事件かな……それともハドスン夫人の知り合いか何かか。いや、やっぱり階段を上がって来るようだぞ。ワトスン君、すまないけどこの椅子をちょっとそちらに押しやってくれたまえ」
 「すみません。シャーロック・ホームズさんの事務所と言うのはこちらでしょうか。マイクロフト・ホームズ氏からうかがって参ったのですが―」
 入ってきたのは、いかにも品のよい服装に身を包んだ、人品卑しからぬ四十歳くらいの紳士だった。上等なのは服装だけではなくどうやらそれを着ている当人ものようで、その一部のすきもない身のこなしからは、これが単なる付け焼き刃ではなく天性の身に備わった特質であることがうかがえた。
 「そのとおりです。どうぞお座り下さい。あなたのふだん腰掛けているピアノの椅子よりは、座り心地がよくないでしょうが―」
 依頼人は目をパチパチさせてホームズを見つめた。
 「これはこれは……。驚きましたよ。話には聞いていたけれど、自分が実験台にされるとなると、また格別の驚きがありますな。いかにも私はピアノを弾くことを仕事にしております。王室ピアニストのロバート・フォレスタ・ウォーレスの名はどこかでお聞きになったことがおありでしょうか」
 「ああ、それではあなたがあのロバート・ウォーレス卿ですか。お名前だけはよく存じあげていますよ。しかし、王室付きのピアニストの方は、あまり新聞にお写真が載るなんてこともありませんからねえ。まあ、とにかくお掛け下さい。こちらは友人で助手のワトスン博士。私に話す事は、何でもこの男にお話し下すって結構です」
 客は示された椅子に腰をおろしながら、なおもどうしてホームズが自分の職業を言い当てられたのかを聞きたがった。ホームズはパイプの灰をたたき出しながら、しぶしぶとそれに答えた。
 「いや何、前にもワトスン君がどこかに書いたと思いますが、ここに一人の紳士があって、顔にはいかにも精神的な仕事についておられるかのような表情が現れている。しかもよくよく見てみれば、両手の指先がへらのように薄べったくなっているとすれば、これは誰が考えても音楽関係についている人だとすぐにわかってしまいますよ」
 「しかし、ホームズ。たとえばヴァイオリンでないというのはどうしてわかるんだい。ピアノは音楽関係者なら誰でも弾くものなのだろう」
 「いやいや、ワトスン。楽器というものは、すべて人間の肉体の仕事を伝える媒介として存在する。だから常時それを扱っている人は、必ずどこかに痕跡を残しているものなんだ。たとえばヴァイオリンなら顎だし、フルートなら唇という具合にね。この人のズボンの膝にしわがないのは常に座って演奏する物をあつかっているからだし、何よりも左右の手が均衡に発達しているのは鍵盤楽器の専門家である証拠だ。オルガニストでないのは指先の、特に先端が平らであることからわかる。しかしまあ、ウォーレス卿もこんな人間観察学についての講義をお聴きになりにいらしたのではないでしょうから、さっそく本題に入ったほうがよろしいでしょうな。いったい何があったのですか」
言われてウォーレス卿は、唇を舌で湿しながらゆっくりと話し始めた。
「まず始めに断っておきますが、これからお話する内容と言うのは、どうもあまり愉快なものではありません。ワトスン博士がホームズさんの事件記録を取っていらっしゃるのは知っていますが、この件に関しては当分の間沈黙を守っていただきたいのです。そもそもこれは、どこかに発表して面白い事柄であるとも思えませんので―。よろしいですかな、ワトスン博士」
 「わかりました」
 「新聞などでご存知だと思いますが、今、我が大英帝国はロシアから親善大使のニコライ・ヴェレドニエフ閣下をお招きしているところです。閣下はすでに国王との謁見も済まされ、目下のところロンドン市内の視察に回っておられます。視察といっても、まあ、親善大使のことですから特に重要な施設を見て回る必要もなく、言ってみれば挨拶回りや博物館だのアルバート・ホールだのの見学が中心になるわけですが、それでも国賓としての重要さには変わりありません。したがって外務省のほうでも最上級の待遇を以て大使に当たっているわけです。それでつい四日前のことになるのですが、私のところに外務省からの使いが来て、バッキンガム宮殿で開かれる大使の帰国前パーティにおいて小演奏会を開くから、そこでの伴奏役を務めるようにとの要請を受けました。大使はフランス物が特にお好きだそうで、オッフェンバッハかマスネの小品をヴァイオリンとの二重奏で演ずるのが良いとのことなのです。もちろん私としてはこれをこの上ない光栄と受け取りましたが、さてそれと同時に、共演するヴァイオリニストの名を聞いていささか不安になったことを告白せねばなりません。ホームズさんは、ジェイムズ・P・ハルスナーの名はご存じでしょうね」
 「もちろんですよ。我が国最高のヴァイオリニストの一人です。私も一、二回コンサートに行ったことがありますけど、あれほど繊細な、それでいて力強い演奏には滅多にお目にかかれないでしょう」
 「まさにそのとおりです。今、『滅多にお目にかかれない』とおっしゃいましたが、それはあらゆる意味で本当のことと申せます。なにしろ、彼の演奏をうまい具合に耳にできるかどうかは、その場になってみないとわからないのですから」
 「と、いいますと?」
 「彼はたしかに芸術家としては超一流です。少々プライドが高くて他人を見下したようなところはありますが、練習にも熱心だし古典から現代に至るまでの楽曲研究は常に欠かしたことがありません。何よりも、そのすべてを音楽に捧げた生活態度は、われわれこの世界にいる人間すべてが規範とすべきものです。それがどうしたことか、一年くらい前からひどく酒を飲むようになり、気性が妙にささくれだってきたのです。演奏会の予定をすっぽかしたことも数度ならずありますし、夜はクラブで飲み歩いてはあたりかまわず暴言を吐きます。それで音楽家仲間ではすっかり嫌われてしまったのですが、困ったことにヴァイオリンの腕では右に出る者がいないので、しかたなく彼に共演を頼むという始末なのです。幸いなことにというべきか、私は王室付きのピアニストなので彼と組む必要が生じたことは一度もありません。それが、今度のヴェレドニエフ氏のパーティでは、ロンドン一の演奏家を招聘しようという外務省の方針で、ハルスナーの伴奏をしなくてはならなくなりました。もちろん私自身も音楽家のはしくれですから、他のときなら喜んで彼と共演する気になったでしょう。しかし、ロシアからの大使の前で、国王の名のもとに弾くとなるとねえ」
 「いささか不安になるというわけですか」
 「そのとおりです。出演交渉がうまくいったとして、彼がその日にちゃんと来るという保証はありません。たとえ相手が国王陛下であろうともですよ。私としては、最初に話を聞いてから、ずっとそのことを心配していました。それが、パーティの当日、つまり今日になって、とうとう本当になってしまったのです!」
 ウォーレス氏は、いかにも途方に暮れたというふうに、両手を広げてみせた。ホームズは黙ってパイプに火をつけた。
 「ハルスナーは、普段はノーザンバランド街の自宅に家政婦と二人で住んでいます。今度のことが決まってから、私は一度彼の家に出向いて音合わせをしようと申し出たのですが、彼はそんな必要はないといいました。当日になったら自分がうまくやるから、お前はとにかくその演奏に合わせればいいのだと―。私はその言い方にいささか憤慨しましたが、争い事は好みませんので、いうことはよくわかったから、当日差し向ける馬車にはきちんと正装して乗るようにといいおいて、その場はおとなしく引き上げました。しかし内心は、どうもあの男は信用できない、もしかしたら何か困ったことになるぞ、という思いをぬぐい去ることができないでいたのです。そして今朝になって、彼の家政婦からハルスナーが突然いなくなってしまったという電話が入って、私は自分の考えが正しかったことを知りました」
 客はここで少し言葉を切ると、そのときの当惑をぜひわかってもらいたいとでもいうように、私たちの顔を見回した。ホームズは興味深そうに身を乗りだした。
 「ほう、そんなことになってしまったのですか」
 「はい。パトリシア、というのがその家政婦の名前なのですが、彼女はいつも朝決まった時間になると、ハルスナーの部屋にコーヒーを持っていくことになっているのだそうです。まず部屋の前でノックをすると中から返事があって、お盆を持った彼女が入っていくのですが、その日に限って返事がありません。おかしいと思って鍵を開けて中をのぞいてみると、ベッドが寝乱れたままになっていて、ハルスナーの姿が影も形もなくなっていたというわけです。パトリシアは今夜のパーティのことをすでに聞いていたので、あわてて私のところに電話をしてきました。私はすぐに彼の家に飛んで行きましたが、彼女の言うとおり、ハルスナーはどこを探してもいなくなってしまっています。こんなばかな話があるでしょうか。国王陛下の主催するパーティに一度は出席する約束をしておきながら、突然いなくなってしまうなんて―。外務省は大騒ぎです。八方手を尽くして彼を探したのですが、行方はまったくわかりません。もっともパトリシアによると、最近こういうことはよくあるそうで、ようやくみんなが怒りをわすれたころになるとひょっこり帰ってくるのだそうです。今度ばかりは彼もそうそうおいそれとは顔を見せられないでしょうけどね。なにしろ、国王陛下との約束を反故にしてしまったのですから。しかし、私としてはそういって落ちついているわけにもいきません。事情はどうあろうと、夜になったらヴェレドニエフ大使の前で彼と一緒にピアノを弾かねばならないのです。別のヴァイオリニストを探すことも考えたのですが、そうはいっても今からでは間に合うかどうか。そこで私が途方に暮れていると、政府会計監査係のマイクロフト・ホームズ氏が、あなたのところへ行くようにと教えてくれました。私もあなたの名声はよく存じ上げております。お願いです、ホームズさん。なんとか夜までに、ハルスナーを探し出して下さい。お礼はいくらでもいたしますから」
 ウォーレス卿は懇願するようにホームズを見つめた。ホームズはしばらく黙っていたが、やがて口からパイプを離してこういった。
 「すると、あなたはまだ、彼の演奏を実際には聴いていないのですね」
 「そうです。本番の前に音合わせをしないなどというのは、普通ならとても考えられないのですが、彼のかたくなな態度が私に有無を言わせませんでした。私も『合わせろ』といわれればもちろん出来ないことはありませんので、しかたなく彼のいうことにしたがったのです」
 「なるほど。それでもろちん、その家政婦も何も知らないのでしょうね」
 「はい。その点については私が自分で問いただしてみました。彼女の話によれば、ハルスナーは昨夜は珍しく酒も飲まずに遅くまでヴァイオリンを弾いていたのですが、それがとにかく今朝になってみると、何の前触れも置き手紙もなく消えてしまっていたということなのです」
 「そうですか」
 ホームズは手を前で組み合わせると、親指を突き合わせながらしばらくじっと考え込んでいたが、やがておもむろに目を開いてこう言った。
 「だいたいわかりました。それではもう一つだけお聞きいたしましょう。もしもあなたが実際にお会いになっていたらの話ですが、そのヴェレドニエフ大使のお人柄がいったいどのようなものだかを教えていただけませんか」
 明らかに、依頼人はこの唐突な質問に戸惑ったようだった。しかし、王室に出入りしているという立場上、言われたことは疑問を差し挟む前に実行する習慣が身についているようであった。
 「そうですね。私もまだ一回しかお会いしていませんが、どちらかというと、気さくでユーモアのわかる方のように見受けられます。多分、どんな人でもあの方を悪く言うことはないでしょう」
 「わかりました。それでは確かにお引き受けいたしましょう。しかし、この問題においてのもっとも重要な点は、解決までの時間にあると思います。バッキンガム宮殿でのパーティは、何時からですか」
 「今夜の六時には会場に入っていなくてはなりません。しかしホームズさん、本当に大丈夫なのですか。もしも間に合わないのだったら、私は国王に謝罪をして何か他の演目を立ててもらわねばなりません。そうするのであれば、早ければ早いほどいいのですよ」
 「そのことであれば、あまり心配なさらなくて結構でしょう。かまわないから、演奏の準備を進めることです。曲目はフランス音楽でしたね」
 「はい。先ほども申しましたとおり、それが大使の好みなのです。オッフェンバッハの『ホフマンの舟歌』を予定しています。今夜は同時に、ロンドン・レコードから録音係が来て、原盤を作ることにもなっています。ホームズさん、ぜひともハルスナーを時間までに見つけ出して下さい!」
 依頼人が帰ってしまうと、ホームズはすぐに外出の支度を始めた。
 「ワトスン君、僕はちょっと出かけてくるよ。君はついてくるにはおよばないが、もしも必要が生じたときのために、部屋から離れないでくれたまえ」
 私もこのときばかりは、ホームズの安請け合いにはあきれるばかりだった。いかに彼でも、これから数時間の間に行方不明のヴァイオリニストを探し出すなど、とても不可能なことだろう。そこですなおに自分の見解を述べると、彼は、
 「問題の中心はね、ワトスン君。むしろ大使の人柄にこそあるのだよ」
と謎のような言葉を残して、部屋を出て行ってしまった。
 それから、最悪の二時間が過ぎ去った。ああは言っていたものの、ホームズからは何の連絡もなく、私はハドスン夫人に頼んで昼食だけをすませると、そのまままんじりともせずに下宿で私物の整理などをして過ごした。いったいホームズはどうするつもりなのだろう。もしも失敗した場合、事はイギリス国家の名誉問題にもかかわるのだ。取り分け、ウォーレス卿の立場は非常にまずいものになってしまうにちがいない。
 「ワトスン先生」
 戸口の外で、ハドスン夫人の声がした。私は黙って部屋のドアを開けた。
 「今、変な汚らしい子供が来て、ホームズさんからだといって、これをおいていきましたよ」
 「ありがとう」
 見ると、茶封筒に入った薄っぺらな手紙のようだった。開けると、何かの手帳をちぎったらしい紙切れに、見慣れた字で走り書きがしてある。

 今夜、五時に馬車が迎えに行くから、一番良い服を着て待っていたまえ。
――S.H.

 「なんでしたの」
 ハドスン夫人にいわれて、私はハッと我に帰った。これはいったい、どういうことなのだろう。ホームズのことだから、多分間違いはないと思うが……。
 「ああ、いや、彼がこんなことをいってきたのですよ。そうだ、このようすなら多分夕食はいらないでしょう。帰りが遅くなるかも知れませんから」
 「そうですか、わかりました」
 なんとなく浮き浮きしたようすのハドスン夫人が出て行ってしまうと、私はさっそく箪笥を探って燕尾服一式を取り出した。多少古くはなっているが、まあ、どこに出してもおかしくはないだろう。それにしても……。
 ホームズは、きっかり五時三十分前に帰ってきた。そしてあわてて自分も箪笥を引っかき回すと、それでもすぐに完全な正装を整えて、そばの鞄を取り上げた。
 「よし、ワトスン。これで三人ともすっかり今夜の準備ができたわけだ」
「三人?」
 「そうだよ。ああ、ハドスンさん。素晴らしい服をお持ちですな。待っていて下さい。今、迎えの馬車が来ますから」
 「まあまあ、夢みたいですよ、ホームズさん。わたしみたいな者までが、王様のパーティに出られるなんて」
 「王様のパーティだってえ」
 「そうさ。我々三人は、今からバッキンガム宮殿でエドワード七世国王陛下に拝謁するんだ。そら、馬車が来たぞ」
私はその夜のことを永久に忘れないだろう。我が国でもっとも高貴な人の紋章がついた立派な四頭立ての馬車を降りると、そこはもう、あのウェストミンスター通りの宮殿前広場で、真っ赤な制服に身を包んだ衛兵が我々をうやうやしく迎え入れてくれた。
 「シャーロック・ホームズ様、ドクター・ワトスン様、そして、ミセス・ハドスン様ですね。こちらにどうぞ」
 どこもかしこもがきらきら輝いた廊下を進んで行くと、あたりには重々しく髭をたくわえた軍人だの、しかつめらしい顔をした高級官僚風の一団だのがちらほらと歩いている。ホームズはいつもの通りの落ちついた顔をしていたが、私とハドスン夫人はあたりの雰囲気にすっかり飲まれてしまっていた。
「おいおいしっかりしてくれよ、二人とも。そんなことじゃあ、国王陛下との握手のときには、気絶してしまうぞ」
 ホームズが小声で言うと、ハドスン夫人の顔からみるみる血の気が引いていった。
 「あ、あの、そんなこともするのですか」
 「もちろんですよ。きっと何かお言葉があるから、うまく返事をして下さいね。や、マイクロフトがいるぞ」
 そのとおり、謁見室の入り口に立っているのは、かのマイクロフト・ホームズ氏の大柄な姿であった。
 「やあ、シャーロック。今夜はご苦労さん。ワトスンさんもハドスンさんも、今日ばかりはたっぷりと楽しんでいって下さいよ。いつも弟がお世話になっているお礼ですから。ところでシャーロック、あれはちゃんと持ってきただろうね」
 「もちろんですよ、兄さん。それで、ウォーレス卿のほうは?」
 「いささかびっくりしていたが、すぐにそれも面白かろうと言ってくれたよ。ヴェレドニエフ大使も喜んでらっしゃる」
 「そうですか。それは良かった」
 「では、またあとでな」
 マイクロフトが行ってしまうと、私たちはホームズのあとについて謁見室に入っていった。そこにはすでに豪華な料理の数々がしつらえてあり、シンプソン料理店にもいないような給仕達が皿を置いて回っている。私たちは、とりあえず隅の方に置いてある椅子に席をとった。
やがてパーティが始まった。司会が開催を告げる声とともに衛兵の抱えたバグパイプが『スコットランド・ザ・ブレイヴ』の曲を奏で、我がエドワード七世陛下が御姿を現した。陛下は、去年即位したばかりの新しい国王とは思えない堂々とした歩き方で賓客の前に進まれると、このようなパーティでの恒例のとおり、賓客の一人々々にお言葉をかけながら握手を求めていった。それは次々と進んで行き、ついに我々の番になった。
 「おお、シャーロック・ホームズ」
と、陛下は言った。
 「君の活躍は王宮でも評判になっておるぞ。我が大英帝国の危機を救ってもらったことも何度かあったな。ブルース・パティントンの設計図や海軍条約文書の事件では、大変に世話になった。これからも、正義のためにがんばってくれたまえ」
 「ありがとうございます、陛下」
 次は私の番だ。
 「ドクター・ワトスン。君の書いたシャーロック・ホームズの活躍は、いつも楽しく読ませてもらっている。多分、あれらの本はイギリス文学が世界に誇る名作になるにちがいない。君こそは、我が国が真に誇り得る最高の文学者の一人だ」
 正直に言って、私はこのあとの自分の答をよく覚えていない。多分なんとかしのいだのだとは思うが、頭に血がのぼってしまったためか、気がつくと陛下はすでに隣のハドスン夫人に手を差し出しているところだったのである。
 「ミセス・ハドスン。スコットランドの女に負けないという朝食は、今でも健在かな」
 私は自分の番が終わったという安堵感とともに、そっとハドスン夫人のほうを盗み見た。さっきの状態が続いているとすれば、彼女が何かまずい受け答えをするのではないかという心配もあったのである。しかし、いざとなると彼女は私なんかよりもずっと肝がすわっているのか、こちらの浅はかな不安をよそにすっかりと自分のペースを取り戻していた。
「はい、王様。ホームズさんは、それは味にうるさい方でして、ベーコンの焼き具合一つまで、わたしがやったものでないと満足なさらないのでございますよ」
 「はっはっ、それは光栄なことではないか。だが、ミセス・ハドスン。ワトスン博士のおかげで、あなたの名前も永久に歴史に残るだろうことを忘れてはならないぞ。あなたはなんといっても、『ホームズとワトスンにベッドを与えた女性』なのだからな」
 やがて陛下はすべての賓客との挨拶を済まされ、中央の自分の席についた。それと同時にニコライ・ヴェレドニエフ大使が皆に紹介され、今夜のパーティが彼のためのものであることも知らされた。
 「さて、みなさん。今晩はヴェレドニエフ大使の帰国を前にして、特に大英帝国から音楽の贈り物があります」
 乾杯が済み食事が始まるとともに、司会の者がいった。それと同時に、私の胸には先ほどの不安がいっぺんに蘇って来た。そういえば、ホームズは首尾良くハルスナーを見つけ出せたのだろうか。もしもそうだとすれば、彼はすでにここに来ていなくてはならないのだが―。そんな様子は、まったく見られないではないか。
 しかし次に司会者が述べた言葉は、私にとってハルスナー発見の知らせよりもはるかに驚くべきものであった。
 「では、演奏者と曲目をご紹介いたします。ヴァイオリン独奏はロンドン一のヴァイオリニストの一人、私立探偵のシャーロック・ホームズ氏。伴奏は王室ピアニストのロバート・フォレスタ・ウォーレス卿。曲目は、オッフェンバッハの『ホフマンの舟歌』です」
ホームズは、あっけに取られている私とハドスン夫人をよそに静かに立ち上がると、さっきの大きな鞄から愛用のヴァイオリン・ケースを取り出した。
 「行ってくるよ、ワトスン。まあ、今夜ばかりはいつも君たちを悩ませているようなのを弾くわけにもいくまいから、ハドスン夫人と一緒にじっくりと聴いてくれたまえ」
 そのときのホームズの演奏は、私の知る限り、今まででも最高のものであった。彼のストラディヴァリウスは夜の恋を歌うアリアの一節を完璧に再現し切り、この楽器が持つ表現力の無限の深さをまざまざと見せつけた。国王はもとより、いならぶ政府官僚やヴェレドニエフ大使、もちろん私とハドスン夫人も含めて、そこにいる誰もがこの偉大な探偵のもう一つの才能に目を見張らされたのである。
「素晴らしい、実に素晴らしい」
 演奏が終わると、まずヴェレドニエフ大使がホームズに近寄って握手を求めた。
 「ハルスナー氏の演奏を聴けなかったのは大変残念ですが、代わりに、あの名探偵シャーロック・ホームズ氏の弾くヴァイオリンに出会えたのは、私の無上の幸運でした。イギリスとロシアの間に結ばれた友情にとっても、これは最高の贈り物となることでしょう」
 「そういっていただけると光栄です、大使。しかし、ハルスナー氏のことについては、あのような事情もあります故、どうか平にご容赦を願います。決して、閣下のことを軽く見たわけではないのですから」
 「おお、それはもちろんですとも。私もまたいつかは再びイギリスに来ることもあるでしょうから、そのときこそは氏の演奏を聴くこともできるでしょう」
 「はい、そのようになることを、私も祈っております」
このあとホームズが国王や賓客達の賞賛を一通り受けると、パーティは次のプログラムへと移っていった。ウォーレス卿がグラスを片手に私たちに近づいてきた。
 「どうもなんとお礼を申し上げてよいやら。とにかく、今夜はイギリス国家と王室の名誉を守ることができました。私もハルスナーがあのような事情を抱えていると知ったら、始めからこのようなことで彼を悩ませることもなかったのですが……」
 「いやいや、ウォーレス卿。すべからく、不運とはどこにでも転がっているものです。問題はそれに出会ったときにいかに対処するかであり、まあその点についてはお互いにうまくやったようですから、今回はそれで満足すべきではありませんか。私としては、このような高貴な方々の席に招いていただいたというだけで、良い経験をしたと思っていますよ。そうだろう、ワトスン」

 「問題は始めから、そうたいして難しいものじゃなかった」
 その夜、ベーカー街の下宿で部屋着に着替えてから、ホームズが説明を始めた。
 「ウォーレス卿の話によれば、ハルスナーは一年前までは立派な人物だったのが、ある瞬間を境に人格の堕落を始めたという。このことはそれだけで、彼の身辺になにごとかの異常事が起こったことを感じさせるだろう。それはいったい何なのだろうか。まず最初に考えられるのは女性問題だが、だとすると演奏会をすっぽかすというのがおかしい。いったいハルスナーのような芸術家にとっては、射止めたい女性が現れたとすれば、むしろ自分の専門分野を完璧にこなすことによって想いを遂げようとすることのほうが普通だからね。では、女性問題を一応除外するとして、他には何が考えられるだろう。ここで僕は、ウォーレス卿が彼の演奏を実際には聴いていないという事実を思い出した。卿のいうとおり、このような場合に演奏の直前に二人で合わせて練習をしてみないというのは、かなり異常な事態だといえる。ありそうな可能性はただ一つ、ハルスナーはウォーレス卿に自分の演奏を聴かれたくなかったのだ」
 「しかし、それは変じゃないかな。音楽家が他人に自分の演奏を聴かれたくないなんて」
 「まあ、待ちたまえ。確かに奇妙ではあるが、一度そのことを認めてしまえば、例えば彼が演奏会をしばしば急にキャンセルすることなんかも、容易に説明が着くようになるんだ。君は医者だからよく知っているだろうが、指を激しく扱う人がかかりやすくて、それ故にヴァイオリニストなどには非常に注意が必要な病気があるだろう」
 「そうか、腱鞘炎だ!」
 「ご名答。僕は、ハルスナーが一年前から腱鞘炎にかかったんじゃないかと思った。聞けば彼は人一倍練習量が多かったというし、そう考えれば演奏会の急な中止もうなづける。医者としての君に聞くが、腱鞘炎の治療法とはどんなものだね」
 「そう……早いうちならステロイドホルモンと局所麻酔の注射で完全に治る。それも指先をちゃんと休ませないと駄目だね。すぐに再発するだろう」
 「ハルスナーは医者にかかってそのことを知った。しかし、ヴァイオリンを完全にやめるわけにはどうしてもいかなかったのだ。なにしろ、あの手の楽器でプロとしてやっていくには、絶えざる練習こそがなによりも重要なんだから。だから、注射と再発を繰り返しながら、ときにはどうしてもうまく弾けないときだけコンサートを取りやめていたというわけさ。そのかたわらでは、悩みを忘れるための酒にひたりながらね。それで、今回も昨日の夜までは必死で練習をしていたのが、それが逆効果になって指先が痛みだしたのだろう。朝になって、その夜の演奏が不可能なことを感じて逃げだした。行くべきところは一つしかない。かかりつけの医者の所だ。それで、僕はここまでの仮説を立てたあとで、まずハルスナーの自宅に行って家政婦のパトリシアに会った。もちろん、彼の主治医を聞き出すためにね。それからハーリ街のその開業医の家に行って、すべての事情と僕の推理を話したら、さすがに業務上の秘密で全部を教えてはくれなかったが、今朝ハルスナーがそこに現れた事と、ひどくがっかりして出て行ったところを見ると、恐らく近所の酒場にいるだろうことを暗示してくれたよ。あとは、医師の教えてくれた方面を探したら、彼がすっかり酔いつぶれているところに出会えたわけだ。介抱して家まで連れていってやったら、ひどく感謝されて同時に懇願もされた。何とか穏便にすませられるよう、ウォーレス卿にはうまく説明しておいてくれとね。しかし僕としては、ともかく何も言わずにいなくなってしまうのが一番まずいのだから、正直に事情を話すべきだというしかなかった。最後には彼も、自分の病気のことが世に知れれば、同情は集まるだろうが出演の依頼はこなくなってしまうと思っていままで秘密にしてきたが、やはり完全に治療をすることがなによりも大切だと悟ってくれたよ。あとはそこからマイクロフトに電話を掛けてわかったことを話し、とにかくハルスナーは病気で演奏はとても無理だから、代わりに僕が弾くことでなんとかならないかとの提案をし、同時に君とハドスン夫人についてもちょっとしたことを頼んでみた。その結果が今夜のパーティというわけだが、ヴェレドニエフ氏が気のいい堅苦しくない人だからこそうまくいったんだ。でなければ、いかに僕でもあんなことはとてもできなかっただろうよ。今晩はある意味で、一世一代の大冒険だったわけだね」

 この話には後日談がある。まず、ジェイムズ・P・ハルスナー氏は、その後腱鞘炎の治療に専念してこれを克服し、長いスランプの末、見事に立ち直ったそうである。氏の復活は、我が国の音楽界ともしかすると外交の充実のためにも、非常に喜ぶべき事だろう。また、ロバート・ウォーレス卿はシャーロック・ホームズのヴァイオリンを高く評価、ロンドン・レコードがあの夜にとった録音をレコードにしたものを送ってくれたが、この『ホフマンの舟歌』のレコードは一年後の『マザリンの宝石』事件で意外な役を演じることになり、それについてはいつか発表することもあると思う。
 最後に、エドワード七世陛下はあの夜のホームズの功績を讃え、彼に士爵の位を授けようとの御言葉を下さったが、ホームズはこれを固く辞退した。
 「だいたい、今でも貴族との付き合いにはうんざりしているんだ。自分がそんなものになるなんてのは、考えただけでもぞっとするよ」
というのが、その理由であった。

 私はこの事件の起った年月をよく覚えている。いつかは事の顛末を発表してもよいけれど、ホームズが功により士爵に列せられるのを辞退したのと同じ月に起った事だからである。

――『三人ガリデブ』より





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