浄夜

平田真夫・眞紀子


 その夜も迷宮の探索を終え、二人してギルガメッシュのカウンターで香料スパイスビールの杯を傾けていると、背後から暖かく力強い声が話しかけてきた。
「おや、珍しく夫婦水入らずというわけか。残りの四人はどうしたのかな。それにしてもいつの間にやら君主ロード司教ビショップとは、君らも立派になったものだな」
「マスター――」
 振り向くと、明らかに老人と言っていい程の貫禄と年輪を感じさせながら、その頬の色艶はまだ若々しく少年のようだ。たくましい体躯は、自分達のような者など到底かなうと思えない肉体の頑健さを見せつけている。その生涯を、常人には考えられないような挑戦と開拓で送って来た、偉大な冒険者が立っているのだった。
「久し振りだな。ぼくも一杯貰うとするよ」
 彼は奇妙な鎧を付けたままそばの椅子に腰を降ろすと、のままのウィスキーを注文する。そして、運ばれて来たグラスを取り上げると、まるで水でも飲むかのように、ぐいぐいと喉に流し込んでいった。
 長い間会わなかったが、やはりこの人は変わっていない。強力な意志の光を持つが、しかし優しいその目――それを見ていると、自分達が如何に長い間不義理を重ねて来たかが思い出され、つい弁解がましい物言いを口にしてしまう。
「すみません。二人とも、このままではいけないとずっと思ってはいたのですが……」
「うん、本当は寂しかったけどね。でも、君らが幸せに生きていてくれることが何よりも大切だし、それがわかればいいんだ」
 老人は尚も杯を重ねると、しばらくの間は三人が出会った昔の話をしたがった。そもそも自分達夫婦が出会えたのもこの人のおかげであるし、何よりも大切な物を共有してきた日々は、自分達にとってもかけがえのない想い出となっていた。
 しかしそれにしても、なぜこの人はこんなところに一人でいるのだろう。わざわざ自分達に会いに来てくれたのだろうか。それにしては、先程から何かを待つように窓の外を気にしているようだが――その様子を見ていると、何か切ないような不安が湧き上がってくる。もしも尋ねてしまうと、二度と取り返しのつかない答が返って来そうな……しかしそれは、どうしても聞かずにはいられないことであった。
「それで、今日は何をしてらっしゃるんですか?」
「ぼくは……迎えを待っているんだ。もう、冒険をするのも終わりにしようと思ってね」
「え?」
 この人が冒険を止める?
 その信じられない言葉に、二人とも愕然となって相手を見る。しかしすぐに老人は笑って、
「いや、あまり深く考えないでくれ。さあ、飲もう飲もう」
と新しい酒を注文した。はて、取り越し苦労だったのだろうか。そこで別のことを尋ねてみる。
「それ、変わった鎧ですわね。城の君主ロード達でも、そんなものは着ていませんわ」
「ああ、これは強化服パワードスーツというのさ。例の迷宮の怪物達とはまた別の、もっと恐ろしい奴らと戦うために作られたものだ。防御力アーマークラスも比較にならないくらい高いし、おまけに戦闘力を上げるという余禄もついている」
 言われてみると、肩のところについている妙な筒は、どう見ても確かに何かの武器である。こんな代物はこの街の武器商店ボルタックにも売っていない。
「これは、向こうで待っている知り合いの爺さんに返さなくちゃいけないんだ。ずっと昔から、預かったままになっていてね」
「向こう?」
「そう言えば、あの爺さんの名前Robertをひっくり返すと、ここの狂王の名前Treborになるな。いや、ちょっとしゃべり過ぎたようだ。あまり気にしないでくれ。そうだ、それよりも君達にこれをやろうか」
 老人はそう言うと、左の腰に差している美しい短刀を引き抜いた。手に取って見ると、鞘で何かがキラリと光る。螺鈿で日と月の模様がはめ込んであるのだ。
「それは、侍や忍者のいる国の北の地方から渡った物だ。昔、ある忍者から預かったんだがね。『カムイの剣』と言うんだ。何でも、とてつもないほどの宝を得る秘密が隠されているそうだが……もうぼくは、探しに行くことが出来ない」
 やはりこの人に何かが起こっている。その不安はますます大きなものになっていく。しかしその正体はまったく知れることがないまま、老人の前のグラスの数だけが増えていった。
 その時、外の通りから、何かラッパのような音が聞こえてきた。そして、たくさんの馬の蹄の足音も……。
「角笛が呼んでいる。迎えが来たようだな。ぼくは行くとするよ。その刀、大事にしてくれよな」
 老人は飲み代にしては多過ぎる程の金を置くと、よっこらしょと腰を上げる。その途端に、今度こそ本当に取り返しがつかないような不安にさいなまれ、二人ともに慌てて後を追い掛ける。三人で店の外に出ると、街の外れに位置するこの場所から見えるのは広大な砂漠――その見霽みはるかす砂丘デューンの彼方から、何やら霧のように霞んだ人影の一団が近づいて来る。中天にかかる無慈悲な夜の女王つきに煌々と照らされたそれは、何か透き通って見えるような鎧の騎士の集団であった。騎士達の周りにはそこだけ白い霧が立ちめ、彼らは店の前まで来ると、老人を待つかのようにその場所に立ち止まった。
「〈さまよえる騎士団〉さ。昔彼らを助けた時に友達になったんだ。いつかもう一度会うこともあろうとは思ってたが、今日がその日だったんだな。では……さようなら」
 老人はそう言い残すと、すうっとその列に加わった。途端に彼の体が透き通っていく。騎士団は砂丘デューンに向かってゆっくりと歩き始めた。
 やはり……やはりそういうことだったのか。
 いつしか空から巨大な折紙の船が降り立ち、老人と騎士団はそれに乗り込んで飛び立って行く。その姿を見送りながら、二人ともにどちらからともなく手を伸ばし、互いに握り合う。もう二度とあの人に会うことは出来ないのだ。今託されたカムイの剣の宝を見つけるまでは――。おそらく自分達だけではない、この夜たくさんの人々が、あの人の想いと意志を受け取ったに違いない。
 ふと、自分達の頬を冷たい物が流れているのに気がつく。そして互いに顔を見合わせて、相手もまた同じやり切れなさにとらわれていることを確認して想う。
 ああ、自分達は今、死者に水分を与えているのだ、と。


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