「ジャングル大帝」分析

横山信太郎

(E-Mail:PEB05035@niftyserve.or.jp)

はじめに――

     戦後日本を代表するクリエイターであった手塚治虫が惜しまれながら世を去ってから一年八ヶ月が経過した一九九〇年九月、「黒人差別をなくす会」という反差別団体から、手塚プロダクション、及び手塚作品を出版している大手出版社数社に、回答期限付きの内容証明郵便が届けられた。
     趣旨は、手塚作品で黒人を描いているものがステレオタイプであり、差別と偏見を助長するものであるから善処せよ、その回答を一、二週間以内に寄こせ、というものだった。
     同会の代表は、次のように述べている。
    「我々は、今度の梶山発言も、手塚作品も、日本人の持つ黒人差別のドジョウの一つだと言いたいのです。我々は手塚作品だけを取り上げて文句を言っているわけじゃないし、絶版にしろなんてことは言っていません。私たちがやっているのは、改善してほしいという提言だけなんです」
     憶えておいでの方はほとんどいないと思うのでおさらいしておくと、梶山発言とは、一九九〇年九月二一日、梶山法務大臣(当時)が、新宿で売春目的のアジア人女性が増えていることに関連して、「悪貨が良貨を駆逐するように、アメリカにクロ(黒人)が入って、シロ(白人)が追い出されるというように、黒と白が混住している状態」などと記者会見で発言、米黒人議員連盟から厳重な抗議を受けた、というものである。(梶山法相は同年一〇月一七日、書簡によって同連盟に陳謝)
     抗議を受けた手塚プロでは、黒人が描かれている手塚作品三百数十点の出版を一年以上差し止めた。(現在は、作品の巻末に注釈を付ける形で、出版が再開されている)
     しかし、用語や表現に対する規制はますますエスカレートする傾向にあり、問題がこれで終わったとは言えない。
     このような状況下で、手塚作品が本当に「差別を助長する作品」であったのか、改めて見直しておいても、あながち無意味ではないと思われる。
     以下本稿では、手塚作品に黒人に対する差別性が存在するかどうかを、具体的な作品の内容に基づき、可能な限り客観的に議論する。
     論点は、以下の二点である。

    1. 「手塚作品が黒人差別を助長する」という、「黒人差別をなくす会」の主張の妥当性。
    2. 同会の手塚プロや出版社に対する「改善」要求の妥当性。

     ここでは全ての手塚作品に触れている余裕はないため、テキストとして、手塚治虫漫画全集1〜3巻「ジャングル大帝」(一九七七年・講談社刊)を使用する。
     数ある手塚作品の中で、特に「ジャングル大帝」を選んだ理由は、同書が「黒人差別を助長する書」として、特に大きくクローズアップされているためである。


1.「手塚作品が差別を助長する」という主張の妥当性について

     本章では、「手塚作品で黒人を描いているものがステレオタイプであり、差別と偏見を助長するものである」という「黒人差別をなくす会」の主張について考察する。
     同会の主張では、具体的にどの作品のどの箇所が「ステレオタイプ」であり、どのように「差別と偏見を助長する」かが明確にされていない。
     そこで、同会が一九八八年に童話「ちびくろサンボ」や黒人グッズの差別性を問題にしたときの主張を元に、問題点を整理してみよう。
     当時同会が問題としたのは、「ちびくろサンボ」や黒人グッズに描かれていた黒人グッズが、次のような表現をされていた点である。

    1. 裸に腰蓑姿で、鼻や首に人骨を着け、手には槍や石斧を持つ「野蛮人」
    2. ボーイやメイド姿の「使用人」
    3. ジャズマン姿のミュージシャン
    4. その他

     また外見上の特徴として、

    1. 丸顔で、ずんぐり太った身体
    2. まん丸目玉で視点の定まらない大きな目
    3. 厚く大きな唇

     が誇張され、戯画化、定型化(ステレオタイプ化)されている点が問題となっている。
     この他、幾つかの商品の商品名なども問題とされている。
     これらのうち、「ジャングル大帝」に共通するものは、

    1. 裸に腰蓑姿で、鼻や首に人骨を着け、手には槍や石斧を持つ「野蛮人」
    2. 厚く大きな唇

     の二点となる。
    (「ジャングル大帝」には、痩せた黒人、細面の黒人、目の小さな黒人も登場するが、ボーイやメイド等の使用人、ジャズマンは登場しないから、2〜6については該当しないと判断する)
     以下、この二点が問題となっているという前提で考察を加える。
     論点は、

    1. 「野蛮人」として描くことが、黒人を蔑視することになるかどうか。
    2. 戯画化、定型化して描くことが、黒人差別を助長するか。
    3. 手塚作品、ここでは「ジャングル大帝」が、野蛮人」あるいは「ステレオタイプ」を一般的な黒人像に敷衍し、かつ否定的なものとして取り扱っているか。

     の三点である。
     以下、個別に述べる。

1−1 「野蛮人」として描くことが、黒人を蔑視することになるか

     まず、「黒人差別をなくす会」の主張から見てみよう。
     同会の代表は、黒人を「腰蓑を着け、槍を持った野蛮人」として描くことについて、「私たちがこれまで軽侮の気持ちを持って無反省に使用してきた表現」であると主張している。
     また一九九一年一一月、東京都内で開かれた日本アフロアメリカン友好協会の月例集会では、「手塚作品は黒人を腰蓑を着けて槍を持ったというようなステレオタイプで描き、人種差別を助長している」という呼びかけが為された。差別を問題視しているアメリカの黒人が、「アフリカの野蛮人と一緒にするな」と発言することもあるようだ。
     つまり著作物の中で、黒人を「野蛮人として描くことは差別であるからまかりならぬという主張である。「腰蓑と槍」は、それらの主張の中で、言わば「野蛮人」の象徴として扱われている。
     このような主張に対し、そもそも「腰蓑を着け、槍を持った野蛮人」という見方が妥当なものであるかをまず考えてみたい。
     ここで二つの大前提を挙げる。
     第一に反差別の基本理念、すなわち「人は基本的人権において平等であるから、人種・性別・思想・信条・宗教・外見・障害の有無等によって差別してはならない」という考え方である。
     第二に、聖書の中の一節「汝らのうち、罪なき者が石持てこの女を打て」、すなわち自ら不正義を行っている者には、他人の同種の不正義を非難・糾弾する資格はないということである。今回の問題について言えば、「他者の差別を非難・糾弾する者が、自ら差別を行ってはならない」ということである。
     これらは、いずれも当然のことであろう。
     結論から述べてしまえば、「腰蓑を着け、槍を持った野蛮人」という見方は、この二つに抵触する。
     何故ならば、「腰蓑を着け、槍を持った生活をしている人々」を「野蛮人」と呼び、軽蔑することは、明らかに彼らに対する差別だからである。
    「野蛮人」の象徴として扱われる腰蓑と槍について見てみよう。
     アフリカのジャングル地帯は、高温多湿の熱帯雨林地帯であり、人間にとっては極めて蒸し暑く、過ごし難い場所である。日常生活をそのような場所で送るためには、服装もそれに見合ったものを工夫する必要がある。
     腰蓑を着けただけの半裸体とは、そのような地で生活する人々が少しでも日常を快適に過ごすべく、先祖代々受け継いで来た服装であり、生活の知恵である。「ジャングル大帝」の主要登場人物であるケン一やメリーも、ジャングルでの生活の長期化に伴い、半裸体の服装をとるようになっている。彼らは文明圏からの来訪者であり、当然のことながら「野蛮人」ではない。
     また槍は、アフリカのジャングル地帯に住む原住民が主として動物性蛋白質の摂取を狩猟という手段に頼っていること、並びに狩猟の方法が近代化されていないことを意味するだけである。
     従って、アフリカのジャングル地帯に住む「腰蓑を着け、槍を持った人々」を「野蛮人」と呼び、否定的に取り扱うことは、まさしく人を生活習慣や文明の形態において差別していることになる。
    「人は基本的人権において平等であるから、人種・性別・思想・信条・宗教・外見・障害の有無等によって差別してはならない」という反差別の基本理念に照らして考えれば、彼らの存在や風俗・習慣もまた、我々が現在暮らしている技術文明とは異なった一つの文明のあり方として認められなければならない。
     そもそも「野蛮人」として描くことが黒人差別を助長するという考え方の背景には、西欧型技術文明を至高のものとし、それ以外は劣ったもの、否定されるべきものとして捉える、技術文明至上主義がある。
     単一の価値観のみを唯一絶対のものとし、それ以外の価値観の存在を認めない、ないしは劣ったものと見なす、極めて偏狭な考え方だ。
     歴史を概観すると、そのようなイデオロギーこそが差別を助長するどころか、差別が行われる状況を作り出して来た元凶であることが分かる。
     かつて西欧のキリスト教国家は、アジア、アフリカ、中南米といった地域を、「キリスト教徒にあらざるは人にあらず」という宗教上の観点に基づき、圧倒的な軍事力を持って侵略し、植民地化していった。キリスト教以外の宗教を信じる者は、無理矢理改宗させるか、異教徒、あるいは悪魔の手先として人間扱いすることを許さず、奴隷化し、あるいは虐殺した。
     これが、今日まで連綿と続くアメリカの黒人や先住民(いわゆるインディアン)、あるいは中南米における先住民差別を作り出したのだ。
     アフリカのジャングル地帯の狩猟民を「野蛮人」と呼び、軽蔑することは、このような歴史上の蛮行を今一度繰り返すに等しい。
     つまり、「黒人を、裸に腰蓑姿で、鼻や首に人骨を着け、手には槍や石斧を持つ『野蛮人』として描くことは、差別を助長するからまかりならぬ」という主張は、まず「人を文明形態や生活習慣によって差別することは正しい」とし、それを前提に「文明社会に住む黒人の差別撤廃」を主張していることになる。
     これは、反差別の基本理念に根本から矛盾する。
     よって、「『野蛮人』として描くことが、黒人を蔑視する」は、そもそも前提が間違っているため成立しない。

1−2 戯画化、定型化して描くことが、黒人差別を助長するか

     ここでは、まず「ジャングル大帝」に描かれている黒人像を見てみよう。
     同作品では、確かに黒人の骨相学的特徴である「厚い唇」を強調して描いているから、「戯画化、定型化した描写」を行っていると言える。
     しかし、それが差別を助長するだろうか?
     まず、世界のどの民族、どの人種でも、骨相学上の、すなわち外見上の特徴は存在する。従って、ステレオタイプを描くということは、単にその特徴をありのままに描くだけに過ぎない。あくまで外見上の個性を描いているのであり、他民族のそれと比較しての能力面での優劣、美醜の差異等を描いているわけではない。(美醜は個人の主観の問題であり、客観的に決められるものではない)
     従って、それが特に悪用されているような場合――例えば、「一般的に、このような骨相学的な特徴を持っている民族は劣等民族である」といった主張がなされている場合を除いては、ステレオタイプが差別を助長するとは言えない。
    「ジャングル大帝」は、作品中でこのような主張はしていない。
     また戯画化の問題については、人の顔を描くときに、その特徴的な部分を抽出し、強調して描くことは、漫画や似顔絵の基本的なテクニックに過ぎない。(同じ手塚治虫の「マンガの描き方」にも記されている)
    「ジャングル大帝」では、確かにこのテクニックを使用しているが、それは先に述べた民族の骨相学的特徴、言い換えれば個性を描くために使用しているだけである。あくまで単なる「特徴」や「個性」であり、「優劣」ではない。
     従って、「戯画化、定型化して描くことが、黒人差別を助長する」は、少なくとも「ジャングル大帝」に関しては成立しない。

1−3 「ジャングル大帝」が、「野蛮人」あるいは「ステレオタイプ」を一般的な黒人像に敷衍し、否定的なものとして扱っているか

     まず結論から述べれば、「ジャングル大帝」では「野蛮人」を一般的な黒人像に敷衍しておらず、否定的なものとして取り扱ってもいない。(『ステレオタイプ』については、前項で述べた通りである)
     何故なら、作品中にはっきり描かれているからである。
    「ジャングル大帝」には、次のような一文がある。(講談社版第二巻の三八ページ)
    「アフリカ……そこは黒い肌の百いくつもの人種のるつぼだ。そして、たくましく、おおしく、自分たちの国をうち立てて行く、あけぼのの大陸だ」
     その次のコマで、こう述べる。
    「しかし、中にはそれにも目ざめずに、自分のからにとじこもって、白人を憎み、よそ者を恐れる部族もいるのだ」
     つまり「ジャングル大帝」は、新国家建設の理想に燃える黒人たちをこそ、アフリカの黒人の多数派、主流派と見なしているのである。(現実にアフリカ諸国が辿った運命については、ここでは言及しない)
     そして同時に、近代化を拒む黒人たちの存在も描いている。
     作品中、彼らはあくまで例外的な存在として描かれており、作者の目も多分に批判的である。
     講談社版第二巻の後半において、異常気象に遭遇したジャングラ族が、ケン一やヒゲオヤジの「文明圏の知恵」によって防寒服を確保するくだりは、その象徴的なエピソードと言えよう。
     つまり「ジャングル大帝」において、「腰蓑を着け、槍を持った野蛮人」(その見方自体が誤りであることは、既に述べた)は、アフリカにおける少数派であり、ごく特殊な存在なのである。
     黒人の一般的なイメージとして、「腰蓑を着け、槍を持った野蛮人」を描いているわけではない。
    「ジャングル大帝」という作品において、たまたまジャングル地帯に住む狩猟民族が多数登場するだけである。
     ただし、彼らに対して作者が批判的であることから、「ジャングル大帝」が技術文明至上主義の思想を若干含んでいることは否定できない。

     以上をまとめると、

    1. 「腰蓑を着け、槍を持った野蛮人」という見方自体が、そもそも「文明形態による差別」である。よって、それを前提に「黒人差別」を批判することはナンセンスである。
    2. 戯画化、定型化しての描写は、差別を助長しない。
    3. 「ジャングル大帝」では、黒人一般を指して野蛮人であるとは主張しておらず、文明人の仲間入りを目指す黒人の姿をこそ正しいものとして描いている。

     となる。
     よって、「手塚作品は黒人差別を助長するものである」という「黒人差別をなくす会」の主張は、妥当ならざるものである。


2. 手塚プロや出版社に対する、「改善」要求の妥当性について

     本章では、「黒人差別をなくす会」から手塚プロ並びに出版社に対して為された「改善」要求の妥当性について考察する。
     同会の要求に対し、該当する出版社で次のように述べているところがあった。
    「現実に手塚さんは亡くなっているわけですから、筋を書き換えるわけにはいかないし、絵を描き直すわけにも行きません。改善して欲しいというのは。結局絶版しかありません」
     ここで問題となるのは、同会が「改善」を要求しながら、具体的に何をどのようにすればよいのかが何一つ明らかにされていないことである。(少なくとも、公開情報の中には存在しない)
     一般的には、具体性を欠く要求は突っぱねられても文句は言えないのが常識であるが、ここでは敢えてそのことに目をつぶり、先を続けよう。
     まず、「改善」の具体的な可能性について列記してみよう。
     考えられるものとしては、

    1. 作品自体を描き直す
    2. 絶版にする
    3. 注釈を付けて出版を継続する

     といったところである。
     1については、著作者が既に死去している以上、不可能である。(第三者が行った場合、著作権に対する明白な侵害行為となる)
     2については、「黒人差別をなくす会」の代表自身が「絶版にしろとは主張していない」と述べている。
     現実には3に落ち着いた次第だが、「黒人差別をなくす会」は、この案に対して「納得できない」と不満を表明していたようだ。ただし、それならどのようにすればよいのか、という具体案は、何一つ出されなかったようであるが。
     2、3を否定している以上、同会の要求は、1の描き直し、もしくは何らかの方法で「手塚作品が黒人差別を助長しない」すなわち「手塚作品を読んだ読者が、黒人に対する差別意識を抱かないような」工夫をせよ、ということであろう。(自分たちが全く責任を取らずに済む形で絶版に追い込もうとしている、と勘ぐれなくもないが、確たる証拠はないので、この説は採らない)
     以下、この想定をベースに論じて行く。
     まず結論から述べてしまえば、同会が要求した「改善」は一切必要はなく、現実に採られた「注釈付き出版」で充分、ということである。
     その理由は、第一に、作品が実際に描かれた時代と現代の間に、大きな隔たりが存在すること(現在、手塚作品の多くに付けられている『注釈』にも、このことが謳われている)、第二に個々の読者に「内面の自由」が存在することである。
     まず第一の理由から述べる。
     テキストである「ジャングル大帝」を見てみよう。
     本作が描かれたのは昭和二五年であるが、この年は第二次世界大戦終了後、僅か五年が経過したばかりである。
     当時日本は連合国(主としてアメリカ)の軍事占領下に置かれており、日本人の海外渡航は厳しく制限されていた。
     従って、「ジャングル大帝」を描くのに必要な、アフリカやそこに住む諸民族の情報について、現地取材などはまず不可能であり、書籍等から入手できる情報も著しく制限され、かつ偏りがあったと思われるから、同作品中に描かれている黒人像が正確さを欠くことは否定できない。
     つまり、当時の政治情勢や日本が置かれていた環境を考えれば、これが精一杯であり、時代的な限界だったのだ。
     また、昭和二五年当時の黒人像と、「黒人差別をなくす会」が問題を提起した一九九〇年時点での黒人像に大きな隔たりがあるのは当然である。
     昭和二五年と言えば、一九九〇年から見て四〇年前である。
     現代のように世界情勢の変動が激しい時代には、一〇年も経過すれば世界が大きく変わることは常識である。増して四〇年も違えば、それはまったくの別世界であると言っても過言ではない。(例えばスターリンのカリスマが頂点に達していた昭和二五年当時、一九九一年のソビエトの崩壊を予測し得た者がいたであろうか)
    「ジャングル大帝」に描かれている黒人像は、あくまで昭和二五年当時の日本人が入手できる情報によって組み立てられたものであることを、まず認識する必要がある。当時、日本人が抱いていた黒人像をそのまま描写したからと言って、それが今日の黒人を差別することにはならない。
     それを言うなら、日本人像も昭和二五年時点と現在では大きく異なるのである。太平洋戦争の傷が未だに癒えぬ当時の日本人を、そのままの姿で描写したからと言って、今日の日本人に対する差別にはならない。
     作品が描かれた時代背景を無視し、今日の価値観のみで作品を断罪し、挙げ句に具体性を伴わない「改善」を要求することは、一種の「事後法」(法律を、それが作られる前まで遡って適用する行為)に等しいと言えよう。
     手塚プロ、出版社は、注釈で「この作品は過去に描かれたもの」と謳っているのだから、この点については既に充分な対応を採っているのである。
     次に、第二の論点について述べる。
     まずはっきりしておかねばならないことは、出版物は一旦出版された以上個々の読者のものであり、それをどのように読もうと、またいかなる感想を抱こうと、その権利は一〇〇パーセント読者に帰属するものである、ということだ。
     著者と言えどもその権利を侵すことはできないし、出版社もまた同様である。アドルフ・ヒトラーの「我が闘争」を読んでファシストになる義務はないし、カール・マルクスの「資本論」を読んだからと言って、社会主義者になる義務もない。
     増してや、これまでに一面識もない赤の他人と主観を共用しなければならない義務など、あろうはずもない。
     これは、数ある「自由」の中でも最も重要な「内面の自由」に属する問題である。大事なことなので少し詳しく述べるが、別名「良心の自由」とも呼ばれ、「悪魔崇拝の自由」「面従腹背の自由」と呼ばれることもある。
     その基本的な考え方は、「個人がいかなる主義、主張、思想、信仰を持とうと、それが個人の内面にとどまっている限り、他人はこれに一切干渉してはならない」というものである。
     身近な例を挙げれば、現在の日本で消費税を払わずに買い物をすることはできない。しかし、このような税金は払いたくないと心の中で思うこと、このような税制はけしからんと思うこと、これは自由である。またかかる意見を表明すること、消費税撤廃を主張する政党に選挙で投票すること、これもまた自由である。
     そしてこの自由は、日本においては、全ての国民に基本的人権の一つとして、憲法により保証されている。(日本に限らず、たいていの民主主義国家では同様であろう)
     手塚作品に「黒人差別を感じるか否か」は、まさしくこの「内面の自由」に属する問題なのだ。
     なるほど、「黒人差別をなくす会」の人々には、作者の意図に関わりなく、手塚作品から黒人に対する差別意識を感じる権利はある。
    「ジャングル大帝」を始めとする手塚作品に接した黒人にも、その権利はある。
     それは認める。
     決して皮肉な意味ではなく、誰はばかることなくそのように感じ、そう主張すればよい。
     しかし他の読者に、彼らと同じように思い、感じる義務はない。
     手塚作品に黒人差別の意識を感じるか否かは、それを読んだ読者一人一人が自由に感じ、決める権利が存在する。「黒人差別をなくす会」と同じ感じ方をしたい人にはする権利があるし、したくない人には同調を拒否する権利がある。
     たとえ自分以外の全世界の人間が自分と異なる感想を抱いたとしても、それに合わせる義務はないのである。
     自分たちが手塚作品に黒人に対する差別意識を感じるからと言って、版権の所有者に「改善」を要求することは、原著者の著作権に対する侵害行為であるばかりでなく、他の読者に自分たちの主観を押しつける行為であり、内面の自由に対する侵害に他ならない。
     当然のことながら、他の読者にはこれを拒否する権利が存在する。
     客観的に見て差別と考えられる行為――障害の有無や人種によって進学や就職で不利な扱いを受けたり、公共施設の利用を制限されたりすることは改められねばならないが、人間の内面にまで干渉すべきではないし、やろうと思っても――オウム真理教式のマインド・コントロールでも使わない限り――できはしないのである。


結論

     以上、「ジャングル大帝」の内容分析を中心に、「黒人差別をなくす会」の主張と、出版社、手塚プロに対する要求の妥当性について論じて来た。
     最後にまとめを述べると、「黒人差別をなくす会」の「手塚作品が黒人差別を助長する」という主張も、同会の手塚プロや出版社に対する「改善」要求も、共に妥当なものではなく、手塚プロ、出版社は「注釈」を付けて出版しただけで既に充分すぎるぐらいの対応を採っているため、これ以上の「改善」は一切不要――ということに尽きる。
     これが、本稿の結論である。


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