十三本の糸


        春の弥生の曙に
        四方よもの山辺を見渡せば
        花盛りかも白雲の
        掛からぬ峰こそなかりけり
          ――「越天楽今様」 慈鎮和尚
「先生!」
 遠くかすかに聞こえる汽笛の音に混ざって、どこかで喜代子の叫ぶ声がする。
「道雄先生!」
 一体どこから聞こえてくるのか。何をそんなにあわてているのだろうか。
 道雄は開かぬ眼をあちらこちらに振り向けて、一心に彼女の居場所を探そうとした。しかしその声がどこから聞こえてくるのか、もとより彼にはわかるはずもなかった。
 ――目が見えないというのは、不便なものなのだな。
 なおも喜代子を捜しつつ、道雄は今更のようにそう思う。八つの時に失明してから五十余年、とうの昔に諦めのついたことだとは思っていたが、こんな時にはやはり光が恋しくなるものだ。そんな道雄の心を知ってか知らずか、喜代子は唯々、彼の名前を呼び続けている。
「先生! 道雄先生!」
 その声は、いつしかあのかすかな汽笛の響きと重なった。そして次第に遠退きながらも、何か別の音に変わっていくようであった。それを聞きながら、道雄は、
 ――ああ、これはいつもの箏の音だ。
と思う。常に自分の傍らにあった、生田流十三弦の音色だ。
 ふと気がつくと、彼はいつの間にやら、韓半島の港町・仁川インチョンの仮住まいにいるのだった。

「先生」
 内弟子の一人が声をかける。喜代子ではない。誰か別の男の声だ。道雄は箏を弾く手を休めて、
「はい」
と、静かに答を返した。日本の畳とは違う朝鮮の温突オンドル式の床が、知らぬうちに悴んでいる手にほかほかと暖かかった。
「新しいレコードが手に入りましたが、お聴きになりますでしょうか」
「題目はなんですか」
「モオツァルトの『弦楽四重奏曲シュトライヒクワルテット』と書いてあります」
「ほほう、それは楽しみだ。ぜひ、拝聴しましょう」
 道雄は箏を傍らに押しやると、弟子の声のするほうに向き直った。するとすぐ目の前で、古い蓄音器の蓋がぎぎっと音をたてるのが聞こえ、やがてそこから、掠れたヴァイオリンの音が流れ出した。道雄は箏を横に置いたまま、その旋律にじっと耳を傾ける。それは雑音の絶え間無い七十八回転レコードではあったが、そんなことは少しも気にならなかった。
 このように、日本にいてはなかなか手に入りにくい西洋音楽のレコードも、ここ朝鮮半島の南方でなら、どうにか買うことが出来る。それらのほとんどはヨーロッパからの輸入物で、その値段は決して安いとは言えなかったが、それでもこれが、箏の教授料で購うことの出来る、道雄の唯一の道楽であった。
「これは……何とも素晴らしい」
 第二楽章の始まりのところで、道雄はぼそっとつぶやいた。すると弟子がそれを聞いて、さも面白そうにふっと笑った。
「何をおっしゃいますか。先生の箏のほうが、よほど立ち勝っておりますものを」
「いえいえ。それはもちろん、私としても箏が楽器としては一番性に合っていますよ。ただ残念なことに、東洋の楽器は合奏の点では、とても西洋の物にかなわないのです。なぜだかわかりますか」
「さあ、私には――」
「それはですね、箏や尺八では、伴奏に必要な低い音を出せないからです。西洋には、コントラバスだとかチューバだとか呼ばれる伴奏用の楽器がありますが、日本にはありません。それをなんとかしない限りは、私達はずっとヨオロッパに対して劣等感を抱かなくてはならないでしょう」
 これは前から思っていたことである。父の家計を助けるためにこの半島に渡ってきてから、少なくともレコードにだけは不自由しなくなった。そして箏の練習の傍らで洋楽の研究を続けた結果、日本の音楽にはいくつかの弱点があることに気づいたのだ。この、伴奏用低音楽器に関する問題も、その一つであった。
「だから私は日本に帰ってから、そのような目的に使える、大型の箏を作ってみるつもりです。実はすでに、大まかな計画だけは立っているのですよ」
 道雄は、まだ続いているモーツァルトに聴き入りながら、自信ありげにそういった。そして同時に、今一つ別のことを考えついていた。
 ――そうだ。考えてみれば、我々は自分達の曲を記録するための、レコードも楽譜も持っていないのだな。西洋の音楽はこの二つを持っていたからこそ、あれだけ人々の間に広まったというのに……。いつかは、これについても考えなくてはならないな。
 道雄はモーツァルトの旋律に心を寄せながらも、日本に帰ってから自分がするべきことに、何か新しい展望が開けたように思った。彼の手は、知らず知らずのうちにそばの箏に伸びていた。
 同時に、ふと彼は、今度は自分が東京の自宅に戻っていることに気がついた。

「先生、喜んで下さい。ついに完成しました」
 目の前で誰かがそういうと、同時にどすんと重たい音がして、道雄の前に何か大きな物が置かれた。彼は手を伸ばして、その表面に触れてみる。
 通常の箏より一回り大きな胴の上に、太い十七本の弦が並んでいた。
「では、これが――」
「はい。先生のお考えになっていた、新型の箏――低音十七弦です」
 先程の声が、厳かな口調で言う。これは――いつも出入りしている鳴り物職人の声だ。名前は確か、鶴川……そうだ、鶴川喜兵衛とか言った。二人は数月前から共同で、道雄の念願であった合奏用の低音箏を研究していたのである。どうやらそれが、ようやく完成したらしい。それにしても、どうしてこう物忘れがひどいのだろう。こんなに親しくしていたはずの人物の名も、すぐには思い出せないのだから。
 道雄は、その楽器の感触をひとわたり確かめてから、喜兵衛に言った。
「弾いてみて、かまいませんか」
「もちろんですとも。むしろ、こちらからお願いいたします。今日はそのために持って参ったのですから」
「では――」
 道雄は袂から生田流の四角い琴爪を出して指にはめると、おもむろに前から考えていた旋律を奏ではじめた。喜兵衛が持ってきた十七弦箏は、まさに道雄が考えていたとおりの、重く太い音色を発した。
「これは……実に素晴らしい」
「気にいっていただけましたか」
「もちろんです。この箏さえあれば、私達の国の音楽も、西洋に負けないような合奏曲を持つことが出来る」
「そういっていただければ何よりです。私もいろいろな楽器を作りましたが、こりゃあ、まったく初めてのものでした。果たしていい塩梅に行くのかどうか、少々の不安はあったのですが、どうやら合格のようですね。苦労した甲斐がありました。ときに先生、今の曲はいったい何なのでしょうか。私が今までに、聴いたことのないものでしたが――」
「ああ、これは『落葉の踊』というのですよ。あなたに十七弦の製作を頼んでから、ずっと構想を練っていました。十三弦と三弦、それにこの十七弦を使って演奏する三重奏です」
「『三重奏曲トリオ』ですって? ははあ、またタルティイニ辺りからヒントを得たのですね」
「はい。以前からこのような物を作ろうとは思ってましたがね。せっかくあちらの形式を習ったのですから、何かにならないかと思いまして――。しかしその計画も、結局は実用的な低音箏がないうちは、単なる思い付きの域を出なかったのですが、どうやらあなたのお陰でようやく現実の物となったようです。見ていて下さい。何年か後には、生田流も山田流も、こぞってこの箏を使うようになりますから――。しかし……」
 ここで道雄は、ふっと考え込む。
「どうしました」
「考えてみれば、まだ私達はあの『ピアノ』に及ぶ性能の楽器を持っていない。ピアノやハープは、一台でオーケストラの総ての楽器の代わりをしてしまう。十三弦や十七弦では、とてもそんなことは出来ません」
「なるほど」
「いったい、どうすればいいんでしょうね。もしもそんな箏があれば、雅楽や能楽の作曲にも、大変に便利でしょうに――ふうむ、これは面白そうだな」
 道雄はしばらくの間、腕組みをしてじっと考える。そしてもう一度、目の前の十七弦をぽろんと弾いてから、おもむろにこう言った。
「そうだ、鶴川さん。こんど私は、そのことも真剣に考えてみましょう。ピアノと同じように、世界のあらゆる音楽を一台で演奏出来る箏――。そういうものが、将来はきっと必要になるはずです。決して、出来ないことではない。どうかその時には、またよろしくお願いしますよ――」

 なぜだかわからない、体が左右に揺れている。まるで酒にでも酔っているようだ。いったいどうしたというのだろう。今まで自分は、鶴川喜兵衛と話していたと思っていたのだが――。
「先生、どうかお座り下さいまし。海に落ちてしまいますわよ」
 そばで喜代子の声がした。ああそうか。今、自分は舟に乗っているのだった。ここは瀬戸内の鞆の浦――亡くなった父の生まれた町だ。
「あら、遠くのほうの島に桃の花が咲いているわ。もうそんな季節になるんですね。先生、花の香りがおわかりになりますか」
 喜代子が言った。このように、彼女は道雄の演奏旅行についてきた時には、いつも彼の開かぬ目の代わりをするのが習慣になっていたのである。
 道雄は見えない眼を陸地のほうに向けて、そちらから吹いてくる風の匂いをかいだ。幼いころに父に連れられてきた時と同じ、陽春のやわらかい日差しが彼の顔に当たった。
「ああ、わかりますよ。懐かしい匂いだ。ここに来て、本当によかった」
「お酔いになるようなことはありませんか」
「大丈夫。私は舟には何度も乗っているのですから。以前ここに来た時にも、朝鮮に渡った時にも――」
「ああ、そうでしたわね」
 道雄はじっと耳をすまして、船頭のあやつる櫓拍子の音に聴き入った。折しも空には鴎の声が飛び交い、辺りは互いにぶつかりあう海水の音で満ち満ちている。
 道雄は以前レコードで聴いた、クロード・ドビュッシーの「海」という題の交響詩を思い出した。
 ――あれは素晴らしかったな。今ここにあるものとは違う、まさに荒れ狂う海神の心象だ。きっと、管弦楽の性能をその隅々まで知り抜いた上で作曲されたものにちがいない。それにしても西洋の管弦は、日本のとは全然ちがった、規模の大きなものだな。自分にはあんなものはとても作れないが、箏曲で海を表現することは出来ないだろうか。ドビュッシイの作曲したヨオロッパの海ではない、この瀬戸内のようにおだやかな、日本の春の海を――。
 その時道雄の瞑想を破って、喜代子が声をかけた。
「先生」
「ん、何ですか」
「この前から、よく近衛先生達とお話していらっしゃいますね。あれはいったい、何のことについてなのでございましょう」
 喜代子のいうとおり、最近しばしば近衛直麿・秀麿親子が飯田橋にある道雄の家にやってきては、点字楽譜と通常の五線譜を広げて、遅くまで話し込んでいくようになっていた。喜代子はそのたびに接待の用を言いつかるのだが、彼らが何をしにくるのかは、まだ知らされていなかったのだ。
 そこで道雄は、「おや、まだそのことは言っていなかったかな」というような口調で、喜代子に答えた。
「ああ、あれは今度作る変奏曲の相談ですよ。例の、『越天楽』を素材にした――。その管弦楽部分の編曲を頼んでおいたのです」
「えっ。それでは『越天楽変奏曲』には、オオケストラを使うんですか」
「はい、前々からそのつもりです。しかし、内弟子の貴女までがそのように驚くところをみると、この計画には多少の自信を持っていいのかな」
 道雄は喜代子の声のする方向を向いて、嬉しそうに笑った。西洋の管弦楽を使った十三弦の協奏曲を作るのは彼の前からの夢ではあったが、それも事ここにいたって、ようやく実現の兆しが見えてきたのだ。今はまだ下準備の段階だが、これが完成した暁には、彼の提唱する「新日本音楽」にも一応の下地が出来上がることになる。問題は、如何にしてこのような常識外れの試みを、単なる思い付き以上の物に仕上げるかだ。
 喜代子は、ほっとため息をついて言った。
「先生は――本当に新しいものがお好きなのですね。あたくしなどには、とても考えが及びません」
「おや、そうですか。ただやりたいことを、やりたいように実行しているだけなんだがなあ。でもまあ、いいでしょう。例の八十弦も、東京に帰るころには出来ているはずだし――」
「そうそう。そのこともでした。あのような楽器、どこのどなたが弾くのですか」
「もちろん、私達ですよ」
「でも、あれでは演奏がとても難しそうです」
「かも知れません。だけど、世界中のあらゆる音楽を箏で演奏するとなると、どうしてもあのように八十本以上の弦が要るのです」
 あの十七弦が完成した時から、構想のあったことだ。日本楽器社の山葉寅楠とらくすが国産第一号の風琴オルガンを完成してから四十年たった今、道雄はそれら西洋の鍵盤楽器に匹敵するほどの、機能的な和楽器の開発に取り組んでいた。すなわち、一台で完全に管弦の代わりをする箏――八十本の弦を持つ、まったく新しい楽器だ。
「東京に帰った時、もしもあれが完成していたら、すぐに演奏会を開きます。実はもう編曲はすんでいるのですよ。多分、『今日のよろこび』とバッハの『前奏曲プレリュード』をやることになるでしょう」
 道雄はそういいながらも、再び春の瀬戸内海に耳を傾けていた。空に舞う鴎の鳴き声、舟端から聞こえる櫓の響き、そして、回りを取り囲む波の音――これらを聞いていると、自分の生涯の最高作になる、素晴らしい器楽小品が出来そうな気がしたのである。それは多分、十三弦と尺八だけを使った、単純な構成のものになるはずであった。
 と、辺りに満ちていた波の音が、急に満場の拍手のそれに変わった。道雄の手に、誰かのやわらかい掌が重ねられた。

 いま道雄の耳には、拍手の音以外何も聞こえていない。彼は、どこか大きな公会堂のような所の舞台にすわっている。どうやら今まで、誰かの演奏に合わせて十三弦を弾いていたところらしい。しかしどういうわけか、演奏していた曲目が何であり、誰と一緒にそれを弾いていたのかは、どうしても思い出せないのだった。
 その時、道雄の手に乗せられていた掌の主が、嬉しそうに声をかけてきた。
「ミチオッ」
 甲高い女性の声だ。しかし、喜代子のそれではない。これは――前にどこかで聞いたことがある。いったい誰の声なのだろう。
「メルスィ、ミチオ」
 ――ああそうか。これは日本語ではないのだ。
 道雄は自分の曲の尺八の部分が、何か別の楽器で弾かれていたことを知った。それは日本の鳴り物ではない、この言葉と同じく外の国からやってきたものだ。
「おめでとうございます、先生」
 舞台を降りると、いつの間にそばに戻ったのか、喜代子が声をかけてきた。
「今晩の『春の海』は、今までの中で一番すてきでしたわね。シュメーさんも、喜んでらっしゃいますよ」
 なんだ――。それでは、今まで演奏していたのは「春の海」だったのか。本来なら箏と尺八のみで演じられる曲のはずだが、どうやら今日は、独奏の部分を先程の外国人女性にやってもらったものらしい。しかし、シュメーというのは……そうだ、思い出したぞ。それが今晩の独奏者の名前だった。一週間前に日本に来て、自分が「春の海」を演ずるのを聞いたとたん、すぐにその曲の楽譜を貸してくれと言い出した女性――。彼女は一晩でヴァイオリン用の編曲を終えてくると、たった一回のリハーサルで、自分の箏にぴたりと合わせてしまったのだ。まったく――広い世間には、いくらでも優れた音楽家がいるものである。
 道雄は自分の手の届くところに箏がないのを、ふと不安に思った。目が見えなくなってからというもの、ずっと箏と一緒に生きてきたので、このような時にはすぐそばにあって、いつでも弾ける状態でいて欲しかったのだ。だから喜代子が、
「ほら、アンコールですよ」
といって、再び彼を舞台に押し出した時は、むしろ箏の近くに行けるということでほっとしたくらいであった。
 今度は道雄は、一人で「秋の調べ」を弾きながら歌った。

  秋の日のためいきに、落葉とならば、
  河にうかびて、君が住む宿近く、
  流れて行こうよ、流れて行こうよ……。

 東京に来て、二年目に作った唄だ。その年には自分の最初のコンサートがあり、彼は生まれて初めて舞台の上で十三弦を弾いたのだが、あれから十三年が経ち、今やこうして、海外の一流ヴァイオリニストとともに自作の曲を演奏出来るようにまでなった。これからは、すべてがどんどん良くなる一方に違いない。もう彼は、箏の教授料で食うや食わずの生活をしなくてもいいのである。
 しかし――。
 ふと道雄の心を、小さな不安が横切った。
 本当に、そういつまでもいいことが続くものなのだろうか。確かに自分の地位は高くなっていくだろうが、それ以外に何か不幸な出来事というのは起き得ないのだろうか。たとえそれが、自分個人の問題ではないにしても――。
 そのまま演奏を続けながらも、彼は心の中で成長していく不安を、どうにも押さえられなくなっていた。それは、彼の見えない目の代わりに養われた、盲人特有の予感とでもいうべきものであった。
 ――そう。自分は何か重大なことを忘れている。いま自分がいるのは、本当はここではない。もっと、別の場所のはずだ。
 と、突然、辺りに煙の臭いが漂いはじめた。

「先生、残念です」
 喜代子と数江が口を揃えて言った。二人とも、知らぬうちに涙声になるのを、どうしても押さえ切れないようであった。
 道雄は自分のことよりも、むしろ彼女達を慰めるように答えた。
「ええ、わかっています。だが、仕方がありません。少なくとも私達はまだ、こうして生きているじゃありませんか。戦場で亡くなった若い兵隊さん達には申し訳ないが、せめてそれだけでも良かったと思わなくては――」
「でも――」
「本当は私だって、銃を持って飛行機か船に乗って行きたかったんです。ここに座って、軍歌を作らされるよりは、そのほうがどれだけましだと思ったことか。だけど、この身ではそれもかないませんでした。だからせめて、これから兵隊さん達が帰ってきた時だけでも、彼らを慰めるために箏を弾いて差し上げなくてはなりません。あの人達は、きっと日本の音楽を恋しく思っているはずだから」
 日清戦争、日露戦争と無理を続けてきた日本も、今度こそ、その命運は完全に尽きてしまっていた。日に日に悪化する戦況に加えて、国内の貧困はもはや行きつくところを知らず、更には彼の父の故郷・広島に落とされたアメリカの新型爆弾による大被害。大艦巨砲主義に凝り固まった連合艦隊は作戦の失敗を重ね、沖縄に向かった「大和」も、アメリカ軍の飛行機の前にあえなく撃沈されてしまった。道雄自身は東京が大空襲を受ける前に、ここ北高根沢に疎開してきたので、危うく難を逃れることが出来たが、有り難くないことには、好きな洋楽は敵性音楽として禁じられ、毎日、軍歌ばかりを作曲させられていたのである。そしてついに今日・八月十五日、戦艦ミズーリ上におけるポツダム宣言の受諾から、今上天皇の玉音放送によって、彼らは日本の敗戦を知ったのであった。
「さ、もういいかげんに泣くのはおやめなさい。私達の本当の苦労は、これから始まるのですよ。その前に、少なくともこれから何とか日本を建て直して、いつかは私達の音楽をまた世界に紹介出来るようにするためにはどうしたらいいのか、その方法を考えましょう」
「でも、先生。公会堂も劇場も、いいえ、それどころか箏を聞きにくる人達までもが戦争のために駆り出されてしまった今、いったいどうしてコンサートが開けるのですか。東京の音楽学校も、閉校になってしまったのですよ」
 確かに数江の言うとおりだった。疎開のどさくさに紛れて、道雄の所有する箏のいくつかは置いてこなくてはならなかったし、その中にはかの八十弦箏も含まれていた。東京音楽学校の閉鎖とともに音楽会も開くことが出来なくなり、さらには空襲によってその八十弦までもが焼けてしまったと聞かされたのは、つい最近のことである。今の日本の国民には、のんびりと箏などを聴いているほどの余裕はなく、ただただ、明日をどう生きていくかだけが、人々の持つたった一つの関心事なのであった。
 しかし道雄は、あきらめるにはまだ早いと思った。そんなことをするくらいなら、あの目が見えなくなった幼い日の夕方、とっくにこの世をはかなんでいる。
 道雄は手を伸ばして、二人の弟子の肩をやさしくたたいてやった。
「でも、さっきも言ったように、私達はまだ少なくとも『生きて』いるじゃありませんか。ならばいつかまた、箏を弾ける日もきっとやってくるでしょう。今の私達に出来ることは一つしかありません。ただ、待つのです。日本が敗戦から立ち直って、音楽学校が授業を始めて、劇場が開くようになるまでね。それまでは、ここでゆっくり作曲でもしていましょうよ」
 道雄は自分自身にも言い聞かせるように、一言一言をはっきり区切りながらいった。喜代子と数江はそれを聞くと、道雄の手を握ってこくんとうなづいた。いつの間にやら、遠くのほうから汽笛の音が響いて来た。

「先生、今度の曲はなんというのですか」
 長距離特急「銀河」の座席に揺られながら、数江がたずねる。道雄は今、「越天楽変奏曲」を関西交響楽団と共演するため、愛用の箏「越天楽」を携えて、喜代子・数江とともに西に向かっているところだった。
 道雄は手に持った点字楽譜をさっと撫でながら、今の質問に答えた。
「ああ、『富士の賦』というのですよ。佐藤春夫さんの詩を使った交声曲です。私には富士山は見えないが、佐藤さんの詩を点字で読んでいると、何かとてつもなく大きな物が心に浮かんできてね。多分この曲には、『越天楽』の時と同じようにオーケストラの伴奏がつくでしょうけど、今度はそれだけじゃなくて、箏や尺八も加えたバッハの『ブランデンブルグ』みたいな合奏協奏曲コンチェルトグロッソにしたいんですよ。箏や胡弓の部分はもう出来ているんだが、はてさて、オーケストラをどのようにしたものか」
 道雄は、点字タイプの代わりに持ってきた携帯用の点筆で、コツコツと窓をたたきながらじっと考え込んだ。このごろは演奏旅行がやたらに多くなったため、飯田橋の自宅でゆっくり作曲している暇がないのである。それでも家の庭に、本格的な防音装置をつけた個人録音場を建てているのだが、その監督もまったくの人任せになってしまっていた。
「あら、先生。どちらにいらっしゃるんですか」
 道雄が楽譜と点筆を持って立ち上がると、喜代子が心配そうに声をかけてきた。道雄はついてこなくていいと合図をしながら、それに答えた。
「ちょっと風に当たりにね。なに、すぐに帰ってきますよ」
 喜代子と数江を置いて手探りでその車両を離れながら、道雄はあの八十弦箏のことを思い出していた。惜しいことにあれは戦争で焼けてしまったが、もう一度作ってみることは出来ないだろうか。そうすれば、今度の「富士の賦」に加えることも出来るのだが……。
 しかしこれは、少々予算のかかる計画と言えた。鶴川楽器に依頼すれば出来ないことはないが、仮に実行したとしても、自分にしか弾けないのでは仕方がない。
 道雄はそんなことを考えながら、車両と車両の間をつなぐブリッジに出ると、そこの手摺にもたれかかった。列車はもうすぐ、刈谷の駅に到着するはずだ。
 と、その時――。
「先生! 道雄先生!」
 後ろで、喜代子のうわずったような声が聞こえ、道雄ははっとそちらを振り返る。途端に手摺がガタンと崩れて、次の瞬間、彼は列車から勢いよく放り出されていた。
 ――ああ、そうか。喜代子はこのことを知らせようとしていたのだな。
 道雄は、一瞬にしてすべてを理解する。しかし、それ以上は何かを思う間もなく、どこかで物が砕ける音が聞こえた。同時に、意識がふっと遠のいて行き、あの懐かしい箏の音も、もはや彼の耳には届かなくなっていた。

 昭和三十一年六月二十五日――。
 日本箏曲界の天才宮城道雄、特級「銀河」から転落して死亡。彼の現代日本音楽に残した功績は大きく、代表作「春の海」、「さくら変奏曲」などは今でも斯界で広く演奏され続けている。しかし、彼がその最大の夢を託した「八十弦箏」だけは二度と演奏されることなく、後の人によって復元されたその楽器は、何者かがその遺志を引き継いでくれる日を待って、彼の自宅にひっそりと置かれたままになっている。


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