カリヨン橋にて




          うつし世はゆめ、よるの夢こそまこと
               ――江戸川乱歩


 新宿西口の駅ビル、その二階から正面の小田急ハルクに向かって、一本の太い歩道橋が伸びているのを御存じだろうか。歩道橋の上はちょっとした広場になっており、その場所でハルク・デパートの壁を見上げると、そこに大きな仕掛け時計を目にすることが出来る。そのままの位置で毎正時に時計が鳴るのを待ってみるとよい。文字盤の下から機械仕掛けの動物たちが現れて、季節にちなんだ曲目を演奏するのが見られるだろうから。そのため、この歩道橋は俗にカリヨン橋と呼ばれて、この辺りの待ち合わせ場所の一つになっている。
 あの夜、彼がその少女に出会ったのも、このカリヨン橋の上であった。ちょうど仕掛け時計が次々に電球の色を変えながら午後八時を告げている時であり、少女はその束の間のギニョールの下、きりりと引き締まった顔にネオンの光を受けて立っていた。
 擦り切れた長いスカート、色褪せたスカーフ――。
 少女は旅をしていた。

 その夜、彼は下北沢のアパートを出て、何することもなく新宿の街を歩いていた。もう十二月も半ばを過ぎ、街はクリスマスや暮れの用意をうながす電飾の光で溢れている。時刻は既に七時半を回った所で、デパートなどはとっくの昔に店を閉じていた。誇らしげに大きな包みを抱えた子供たち、何かの宴会が終わってうろうろする集団――。それらが、まるで黒い人形の影が歩くかのようにさっさと通り過ぎていく。彼は幻を見る想いでその人々を眺めながら、さきほど買ったセーターの包みを抱えて彷徨っていた。
 下北沢に住みついてどのくらいになるだろう。年を取ってからは特に仕事を探す気にもならず、まとまった収入などはまったくなかった。ただ、幸いにもちょっとした貯えはあるので、今の安アパートの家賃と食うのには何とか困らないで済んでいる。もともとそういった日々の生活については贅沢をする気など少しもなかったので、別に今の暮らしを不便だとは思わない。だが、もうさほど先に何かがあるとも思えない中、黴臭い部屋での一人暮らしに少々つらい物があるのは否めなかった。
 ――自分が死ぬとしたら、多分この部屋でなのだろうな。
 一人で食事を終えた時など、ふとそんなことを思う。いずれにせよ、自分がどうなっても誰も気にも留めないだろうし、気に留めてもらおうとも思わない。ただ、とりあえず今彼は生きており、生きている間は何かを感じることがある、それだけのことである。しかし、そんな時彼は、たった一つ南に向いている窓の縁に座って、取り留めもないことをぼんやりと考えたりするのであった。
 その日も彼は、少々の読書と部屋の掃除で一日を終えた。夕方になって窓の外を見る。オレンジ色の太陽が弱々しい光を地面に落としており、その中で狭い路地裏を眺めていると、今更ながら自分の住まいの埃っぽさと湿り気に気がつかされるのだった。
 ――あの向こうには……。
と、東の空を見上げて彼は思う。遠くの方から、小田急線の踏切りの音が聞こえる。
 ――夜でも明るい場所がある。
 日が暮れるとこの辺りは妙に暗くなってくる。都心に近いというのに、少し脇にそれると、もうそこは都会の明かりから外れてしまうのだ。
 ――ちょっと出かけてみようか。今日辺りは、外で飯を食うのも悪くない。
 もともと彼は都会の喧騒の中、知らない人々の間を歩くのが好きであった。部屋で一人で食事をするのがつまらないというのが一番大きな理由だったが、小田急線と井の頭線の交差駅という地の利もあり、新宿と渋谷にはよく買い物に出かけた。そういう日は、出来るだけ大きなデパートで普段着などを買い求め、ビルの最上階にある本屋で新刊書を開いたりする。普段つつましい生活をしている彼が、しばし「今」というものに触れる時だ。それから、彼にしてはハイカラな家族向けの食堂などで食事を取り、夜ともなれば、窓の外のネオンに目を移してウィスキーを注文することもあった。そんな時彼は、自分が孤独でいることが、なぜかとても幸福であるように思うのだ。
 彼はしかし、そのまましばらく、電車の警笛の音に耳を傾けていた。出掛けようという気にはすぐなるのだが、さて行動に移そうとすると少々面倒になる。こういう時は、やはり年を取ったものだと思う。しかし、出るなら出るで早く決めないと、帰りが遅くなるばかりだ。
 彼は決心して立ち上がると、雨戸と窓の鍵を閉めた。そして押し入れから出した厚手のジャンパーを羽織ると、箪笥の小抽斗を開けた。中には数本のナイフ――若い頃から集めていた短刀や懐剣の類が入っている。これといった趣味のない彼の、唯一の財産だ。彼は夜眠れない時など、そっとこれらを取り出しては、その刃が鈍く光を反射する様などを眺めたりするのだった。そうすると、昔これらとともに過ごした時が思い出され、思わず知らず唇がほころびるのだ。あるいは一人暮らしの寂しさが募る時など、このうちのいくつかを砥石に当てて手入れをすることもあった。もちろん彼としても、常に鋭く研ぎ上げられた刃を今更磨く必要などないのは百も承知である。ただ、そうしていると心が落ち着くのだ。もしも彼が独りでひっそりと死んだとしても、人々は錆びたナイフが残されている所だけは目にすることはあるまい。
 彼はしばらく迷ってから、一番古く、一番大切にしている一本を取り上げた。柄を握って弄ぶと、その刃の重さが、ある存在感を持って響いてくる。永年使い込んだにもかかわらず、その刀身にはいささかの曇りも刃毀れもなかった。いや――そもそもこれだけは切れなくなって砥いだということが一回もないのだ。この刃の材質は、ちょっとやそっとでは絶対に傷まない。
 彼はあまり装飾のついたナイフを好まないし、事実他のコレクションにもそのような物はないのだが、これだけは例外で、柄の金属部分に蔦の模様の彫刻が彫ってあった。金と銀に縁取りされたその模様は、彼の部屋の蛍光燈の寂しい光の下でも、燦然と美しく輝いた。
 彼はそのナイフの状態に満足すると、外しておいた鞘に刀身を収めて、ジャンパーの内ポケットに忍ばせた。出掛ける時はいつもこうすることにしている。もちろん、何かの意味があってする行為ではない。ただ、これら古い友人たちと一緒にいると気が落ち着くというだけのことである。どこにいる時でも、常に若いころに苦楽を共に過ごした物の重みを感じていたい。そんな想いから生まれた、これは習慣であった。彼は財布をポケットに入れると、外に出た。
 風はとても冷たく、厚めの布地を通しても冷気が染み込んで来た。部屋にいてもそう感じたのだが、それでもこうして外に出てみると、あんな安普請のアパートがけっこう有り難い物だとわかるようになる。それだけでもまあ、意味はあるというわけだ。彼は足早に駅に向かい、折り良くやってきた急行列車に飛び乗った。
 電車に乗って十五分あまり、その間に辺りはどんどん暗くなっていった。彼は滅多に座席にすわらない。なんだか手持ち無沙汰になってしまうのだ。だから、ポケットに手を突っ込んだまま、扉に寄り掛かっていたりすることが多い。その日も彼は入口の扉に顔を寄せ、窓の外を過ぎていく家並みを眺めながら、この世界のどこかは今が昼であり、もしかすると夏である所もあるのだな、などと妙なことを考えていた。最近は考える時間が多いためか、変なことを思いつくことが増えたような気がする。――これは余裕というものとは違うな。しかし、仕事が見つからなくて暇なのと、働く必要がなくて暇なのと、それほど変わりがないのも事実ではないか。
 誰かがどこかの車両で大声で歌っていた。最近は、電車の中でこのように妙な振舞いをする人物が増えてきたように思う。みんな寂しいのだろう。少なくとも、幾許かの人たちは――。彼は扉の窓に顔を押し付けて、ひんやりとした感触を確かめた。口元のガラスが、息で白く曇っていた。
 しばらくぶりの新宿は、しかし、いつもと変わりはなかった。相変わらずにぎやかで、雑然とした活気に溢れている。多少なりとも目立つことといえば、こんな時間になってもいつもより親子連れが多いことだろうか。それに気がついて初めて、彼は今日が土曜日で、クリスマスが近いことを思い出した。あの父親や母親も、多分子供にせがまれて、デパートに玩具などを買いに来たのだろう。毎年のことだが、家族がいないとこういうことに余り関心がなく、つい忘れてしまいがちになる。もうすぐ大道商人たちが、そこらの道端で連飾りなどを売るようになるはずだ。その頃になったらまた来ようか。自分には、そんな物を飾る習慣などないのだが――。それにしても、彼らは一体どこからやってくるのだろう。
 彼は東口から街に出ると、とりあえず閉店間際の伊勢丹に行ってセーターを買った。自分に対するささやかな贈り物……いや、別段深い意味はない。ただ、寒かっただけだ。よけいなことは考えなくていい。
 「お客様に申し上げます。本日も当店を御利用いただきまして、まことに有り難うございました。只今を持ちまして、当伊勢丹デパート、閉店とさせていただきます。本日は、まことに有り難うございました。またのお越しをお待ち申し上げております」
 靴下売り場の付近をうろうろしていると、頭の上から放送が入った。なんだ、もうそんな時間なのか。時計を見ると七時だった。やはり出て来るのが遅かったようだ。もっと他に、行きたい所がないわけではなかったのに――。
 大通りに出ると、しかし、街の音はいつまでも止みそうになかった。こういった「表」の店はここまでで終り、これからは別の世界が始まる。彼は新宿が眠りにつく所を見たことがない。いつもその前には、電車に乗ってアパートに帰ってしまうからだ。しかし、部屋に着いてから東の空を振り返ると、この街が夜を徹して眠らずにいることだけは、容易に想像がついた。いつかはあの空の下を、ナイフを胸に夜通し歩いてみたい。いつもそうは思うのだが、現実にはなかなか実行に移すことはなく、これは当分の間実現しそうになかった。その気になれば、誰に気兼ねするわけでもなく、すぐ出来ることのはずなのだが――。
 だが、まあ取り敢えずは終電には間があるというわけだ。彼はそのまま駅に向かうと、高架をくぐって西口の方に回った。食事を取ろうと思ったからだが、若い物が流行歌を唄うような場所には、もちろん行く気がなかった。静かな場所で、ほんのちょっとした酒と食べ物があればそれでいい。ただ、地下の暗い店はいやだ。辺りのネオンが見えるような、しかし、あまり高くない場所に行きたい。
 西口バス停広場の向こうに、望み通りの店を見つけて窓際に席を取ると、彼はジャンパーを脱いで簡単なつまみと日本酒を注文した。店の中にはむっとするような熱がこもっており、しばらく経つと着ていたトレーナーまで脱がねばならなくなった。上着を取ろうとすると、携帯してきた短刀が心地好い重みを感じさせる。彼はその感触に満足だ。永年連れ添った相棒とはこういうものだろう。彼はアパートを出て初めて、ほっと人心地がついたような気がした。
 ――今年の冬は暖かいといっていたが、そうでもないな。一月になると、もっとひどくなりそうだ。
 そんなことを思いながら窓の外に目を移す。こんな時刻になっても、黒い影となった人々が未だ駅から次々と吐き出されては、ネオンに照らされた街へと消えて行く様がよく見えた。それらを眺めながら、運ばれて来た酒を飲み、魚をつつく。彼は幸福だった。このようにたくさんの人々に囲まれ、しかしその誰ともかかわらずに済むことが、痺れるように幸せであった。それがあるために、彼はこうして外に出て来るのだ。
 ――カリヨン橋だ。
 その通り、近くにカリヨン橋が見えた。彼とても、これほどしばしば新宿に出て来るのだ、あの歩道橋の呼び名くらいは知っている。橋の上は数本の街頭で照らされて意外に明るい。こちらから例の仕掛け時計は見えないが、幾つかの人影がまるで黒い彫像の群れのように集まって、あるいは立ったまま、あるいは備え付けのベンチに腰掛けて、ハルクの壁を見上げているのだけはよくわかった。
 ――そういえば、あれが鳴るのを見たことは一度もない。
 酔った頭の片隅でそんなことを思う。あの仕掛けは前からどんな物かと思っていたが、いつもタイミングが悪くて見逃していたものだ。そう思って壁の時計を見上げると、いつの間にか七時半になっていた。彼は自分がまずい選択をしたことに気がついた。せめて、ハルクの反対側にある店に入っていれば、暖かい場所に座って人形たちの演技を見ることが出来たのに――。
 それでもあと少ししてから出掛ければ、ちょうどよい時間になるだろう。酔いも思ったより回り掛けているし、それを冷ますのにも都合がいい。そこで彼はしばらくの間、道行く人々の影を眺めながら、ゆっくりと酒を飲み筍や煮魚を食べた。盃を重ねるたびに、体の中に灯った火がしっかりした消えにくいものになっていく。このままカリヨン橋から時計を見物してアパートに帰れば、今晩は気持ち良く眠ることが出来るだろう。時刻が七時四十五分になったのを確かめると、彼は盃に残った最後の一口を飲み干して、やおら席を立ち上がった。
 カリヨン橋の上は意外ににぎやかだった。先程見えた人影の中には一人で来ている者などまるでなく、ほとんどは若い男女の二人組か宴会帰りの集団で、何事かをべちゃくちゃと話し合っては、時々ゲラゲラと笑ったりしている。
 ――それでさあ、いってやったんだ。あんたなんかにきくくらいなら、じぶんでしらべたほうがずっとはやいって――そうそう、そういうことってあるよね。なんか、きょうだけはパスみたいな――おい、おまえそれ、もうちょいなんとかなんねえのか――。
 酔って鈍くなった頭に、それらの会話が幻のように届く。その様子は何といえばいいのか、そう、まるで平仮名でしゃべるのを聞いているようだ。明らかに日本語なのだが、ちゃんと聞こうとすると頭の芯が疲れてしまう。彼はその話し声に囲まれて少々居心地の悪い思いをしたが、そばの冷たいベンチに腰を降ろす気にもなれず、手すりに寄り掛かって件の時計を見上げた。金色の外観に白い文字盤、そこに取り付けられた原色の電球群がちかちかと点滅している。何だかあまり趣味の良いデザインとも思えなかったが、それでも昼間見た時ほどは安っぽくなく見えた。闇の効果とでもいうべきものだろう。時刻は八時六秒前――。
 次の瞬間、秒針が長針と重なり、同時に真上で点滅する電球を指した。八点鐘が高らかに鳴り響き、文字盤の下から舞台が迫り出して来る。そこには、色とりどりの衣装を着けた四体の動物人形が乗っており、こちらに向かって一斉に頭を下げると、チャイムの音で「ジングルベル」を演奏し始めた。何だか妙に調子の外れた、それでいて一本調子な演奏だ。機械で音を出すのだからこんなものなのだろう。それにしても、昼間わざわざ見に来るほどのものではない。
 それでも彼は、時計の演奏が始まると、辺りの人々は話をやめてそちらを見上げるものだと思っていた。みんなそのために、さっきからわざわざここで待っているのだろう。しかし現実には、確かに何人かそうする者もいるのだが、大部分の若い連中は自分らの勝手な会話をまったく止めようとせず、一応時計を見上げることがあっても、すぐに顔を戻してまた話を始めてしまうのだ。彼らにとって、カリヨン橋とは一体何なのだろう。話がしたいのであれば、こんな寒い所にいないで、もっと暖房の効いた場所にでも行けばいいのに。
 ふと彼は、自分のジャンパーの前が開いて、ナイフの柄が飛び出していることに気がついた。店を出る時に閉めないで来たらしい。いけない、いけない。街中でこんな物を持ち歩いているのが回りに知れると、何かと面倒だ。彼はナイフを懐中に押し戻すと、ポケットに手を突っ込んで再び時計を見上げた。
 演奏はまだ続いていた。結構長いものだ。しかしそれにしても、これを見終っただけで帰るのでは、いささか物足りないように思う。何だか肩透かしを食ったような気がするのだ。いつもそうなのだが、帰宅する潮時というのは難しい。帰ればどうせ冷たい寝床が待っているだけなのである。いっそ、もう一軒飲みに行こうか。彼にはあまり関係がないが、世間はもうすぐクリスマスだ。
 そのようなことを思った時、彼は少女に気がついたのであった。
 少女は彼の真横に立って、独りで時計を見上げていた。この瞬間、そちらを曲がりなりにも見上げているのは、彼とその少女だけであった。どうして今まで気がつかなかったのか、あまり近くにいすぎたためかも知れない。しかし一度気がついてしまうと、その姿は妙に彼の視線を引いて放さなかった。
 少女は、頭に緑色のスカーフを巻き、右手に大きな布の袋を下げていた。地面に引きずるような長いスカートを履いてはいるものの、上半身には薄地のシャツを着ているだけでコートも手袋も着けず、どう見てもこのような季節に戸外を歩くにはそぐわない服装をしている。ただわずかにスカーフからはみ出した髪の毛だけが首筋と肩の一部を包んでおり、季節の冷たい風を遮るのに役立っているようであった。折りしも叩きつけるような突風がどっと通り過ぎたが、それでも寒さをまったく感じないのか、少女は肩を抱くこともせず、髪が風に吹き上げられるに任せていた。彼は、その頬に何か水のような物が光っているのを見つけた。少女は泣いているのだ。
 家出でもしてきて里が恋しくなったのか、それともカリヨン橋に何か悲しい思い出でもあるのだろうか。それにしては、少女の口元には何か微笑のようなものが浮かんでいる。彼女はうれしくて泣いているのだ。
 ――一体何なのだろう。
 彼は時計の方を見る振りをしながら、なおもそっとそちらのほうをうかがった。少女は非常に背が高く、それもまた、この橋の上で一際目立っている理由の一つであった。彼自身もどちらかといえばかなりな長身で、年の割には腰も曲がっていないのだが、その彼と並んで立っても、さほど低くは見えないくらいだ。それは、生活の匂いなどどこかに置き忘れて来たような彫りの深い顔立ちとあいまって、彼女をどこか別の国から来た女性のように見せていた。いや――実際、日本人ではないのかも知れない。そういえば、着ている物の作りなども、どことなく外国を思わせるものがある。しかし、そんなことを思いながら少女を見ていた彼にとってもっとも心を魅かれたのは、彼女が首から下げている革の鞘に入った一本のナイフ――華奢なデザインの柄がついた美しい短刀であった。
 始め彼は、それを何かの装身具の類だと思った。実際そうだともいえる。鞘からのぞいている短い柄には何かの精巧な彫刻が刻まれ、それはネオンの光を反射して滲んだ輝きを見せていた。暗くてよくわからないが、どうやら鞘の革にも複雑な模様が刻印されているらしい。このような少女がアクセサリーとして持ち歩いてもおかしくはない品だ。だが、ただそれだけの物としてとらえるには、あまりに重量感があり過ぎた。多分、実際に武器として使用しても、充分に実用に耐えるに違いない。それにしても、街中でこんな物を堂々と首に掛けているとは、一体どういうことなのだろう。
 少女は時計を見上げながら、時々それを左手で弄んでいた。その様子から見ても、ナイフは今彼が胸に入れている短刀と同じく、少女が常に行動を共にしている伴侶のようであった。彼は、そのナイフが鞘から抜かれる所を見てみたいと思った。
 しかし、そのようなことを思ったのはどうやら彼だけだったようである。辺りの人々はまったく少女に注意を払っていないように見えた。あるいは彼と同じように、気がつかない振りをしながらも、そっとそちらを見ているのかも知れない。しかしどちらかといえば、自分たちの愚にもつかないおしゃべりに熱中しているだけのようであった。
 少女はふと時計から視線を外すと、着ていたシャツの袖で涙をぬぐった。一瞬その顔が彼の方を向き、二人の目が合った。彼は素知らぬ顔で目をそらした。
 ――気がついたかも知れない。いや、きっと気がついている。
 再び時計を見上げながら、そう思う。時々街で出会う若い女性たちの意地悪そうな視線が思い出される。彼は他人を見ることは好きであったが、他人に見られるのはあまり好まぬほうであった。年を取ってからは特にそうだ。もっとも、だからといってこの場からいきなり立ち去るのも何かわざとらしい。それに、あとしばらくは少女のナイフを見つめていたいという気持ちの方が強かった。それでどうしようか迷っていると、いつの間にか時計の演奏が終わって、人形がしずしずと中に引っ込む所だった。歩道橋をくぐる車のエンジンが耳に付き始める。と、少女は深いため息を突いて肩の力を抜くと、何を思ったか、いきなり彼の方を向いて話し掛けてきた。
 「きれいでしたね、今の時計――」
 一瞬、彼はどうすべきかと思う。少女がどういうつもりなのかわからなかったからだ。ただ、彼にとって救われたのは、彼女の目は笑ってはいたが、決して自分を見ていたのを非難しているようには見えなかったことだ。彼は当たり障りのないように、そっけなく答えた。
 「ああ、いや、そうですかな」
 「ええ、とっても。ここは美しい所ですね。こんなに光に溢れていて……竜も巨人もいない。でも、誰もそれを見ていないなんて――」
 少女は髪を掻き上げると、辺りのネオンの群を見回した。赤、緑、紫、橙――次々に変化する極彩色の光が、彼女の瞳に反射して流れて行く。それら原色に染められた明かりの群は、しかし確かに美しかった。考えてみれば、これらを見に来るというのもまた、彼がしばしばここに出て来る理由の一つだったのだ。しかし――。
 ――巨人?
 確かにそういったような気がする。彼は、少女の口にした妙な言葉を繰り返してみた。それは彼女の耳には届かなかったかも知れない。少女は再び時計を見上げて言った。
 「光がこんなに美しい物だなんて、初めて知りました。わたしのいた所は一面の灰色で――地面も空も風さえもが、灰色の国で――それに、とても暗くて寒い所でした。だからこそ、どこかにあるというこの世界に憧れて、たくさんの人々が旅に出たのですが……みんな諦めて帰って来ました。でも、わたしだけはようやく入口を見つける事が出来たのです」
 奇妙なことを口にしながらも、その目には冗談をいっているような所も、何かの妄想に取り憑かれたような様子もなかった。あくまで静かに淡々と、辺りのネオンの光を映して輝いている。新手の娼婦か、でなければ新興宗教の類いだろうか。あまり深くかかわらないほうがいいのかも知れない。だが、少女の様子には、そのような下心などはまるで見えないのだ。
 彼は黙って少女の横顔を観察した。長い睫毛に、車の光がにじんでいる。濃い朱に染まった唇が強く結ばれているのは寒さのためだけではない、彼女の内にある意志の強さを表しているようにも思えた。
 彼は長い間の一人暮らしで、すっかり口を聞くのが苦手になっていた。自分の部屋に誰かを入れたこともなく、ただ日々の生活でどうしても必要なこと以外は他人と交わらないで生きていく。そんな信条めいたものがいつの間にか出来上がっており、今更それを変えるつもりもない。そのためか、ただ他人に話し掛けるということだけでなく、人の話を聞く方もあまり得意ではなくなっていた。だからこの場は黙っているしかなかったのだが……少女はそんな彼の戸惑いには頓着せず、彼の方を向いて清々しい笑顔を見せた。彼はその笑顔に少々の勇気を得、おずおずとポケットから手を出しながら話し掛けた。
 「あのう……それを少し見せてくれませんかな」
 始め少女は、何のことやらわからずしばし戸惑ったようであった。が、すぐに彼が、自分の首に下げているナイフのことを言っているのだと気がつくと、何か警戒したような表情を見せた。彼はあわてて手を振った。
 「あ、いや、無理なら別にいいんです。ただ、私はナイフが好きなものだから」
 まあ、仕方があるまい。自分だって同じことを頼まれたら素直にうんとはいわないだろう。彼は胸のポケットに入っているナイフのことを思った。特にこれなどは、そんな想いが強い物だ。
 しかし少女は、少しの間ためらったようには見えたが、やがて持っていた袋をそばに置くと、ナイフを首から外して彼に向かって差し出した。そして再び、奇妙な、よく意味のわからないことを言った。
 「どうぞ。ちょっとびっくりしましたけど、でも、考えてみたら、このナイフは、わたし以外の人には、ただ、見ることしか出来ませんから」
 「ありがとう」
 手に持ってみると、やはりそれは、華奢な作りにしてはどっしりと重く、しかししっくりと手になじんだ。辺りの人目を気にしながら鞘を引いてみる。細身の刀身が現れたが、しかしそれは普通の金属ではなかった。何か白く滑らかな材質で出来ており、渦巻のような模様と艶を持っている。しかし刃付けはさほど入念ではなく、そんなに鋭いという感触は与えなかった。
 「これは――」
 「竜の骨です」
 「竜の骨?」
 彼が訝しげな顔を見せると、少女は少し考えてから足元に目を落とした。どういうわけか、こんな歩道橋の上の広場にも小石がいくつか落ちているものだ。少女はそのうちの一つを拾うと、そばの手摺の縁に置いた。
 「それを貸して下さい」
 言われるままに、ナイフを鞘ごと返す。少女は唇の端に微笑を浮かべると、すっと刃を引き抜いた。辺りにいる誰かが見ているかどうかなど、まるで気にしていない。少女の手元に、緩やかな空気の流れが生じた。
 「見てて下さい」
 少女はナイフを持ち上げると、小石の上に刃を当てた。次の瞬間、石がきれいに二つに割れて、少女の足元に転がった。彼は思わず、声にならない声を上げた。
 「!」
 少女は刀身を鞘に収めると、今一度彼にそれを手渡した。それからもう一つ別の石を拾って手摺に置くと、今渡したナイフを目で示して微笑んだ。
 「どうぞ」
 始め彼はその意味がわからず戸惑ったが、すぐに気づいて鞘を外した。少女のしたように石に刃を当てて、うん、と力を込めてみる。石はもちろんびくともしない。彼は、ナイフのどこかを傷めてはいないかと思って調べて見たが、その白い刃先には何の損傷もなかった。
 「それは、本当の持ち主がその気になったときにしか使えないのです」
 少女は彼からナイフを取り上げると、自分の手の甲に当ててすっと引いた。あっと思ったが、少女の手にはまったく傷がつかなかった。しかし、もう一度今の小石に刃を当てて見せると、石は再び真っ二つに切れて転がるのだった。
 少女はナイフを鞘に収めて首に掛けると、どうですか、という顔を見せた。彼は素直に、
 「素晴らしい――いや、不思議な物だ」
と、答えた。今は、少女の言っている奇妙なことも、何かあっさりと受け入れられそうに思えた。
 「その、あなたの来たという所には、このような物がたくさんあるのですか」
 「ええ。わたしたちの国では、これは生まれた時に与えられます。そして生きている間はずっと持ち続け、死ぬと一緒に埋葬されるのです」
 少女は何かを懐かしむような顔をした。このナイフと一緒に育った時を思い出しているのか、それとも彼女のいう灰色の世界とやらを偲んでいるのだろうか。いずれにせよ、その瞳の底には、幾許かの悲しみのような物が宿っているように彼には思えた。
 少女はそばのベンチに腰を降ろすと、置いておいた袋を引き寄せた。そして、ビルに挟まれた狭い空を見上げると、ほっと深いため息をついた。彼は自分も腰を降ろすべきかどうか迷ったが、さすがにそれはやめておいた。
 「ここでは星が見えないんですね」
 少女は独り言のように言う。その言葉に一緒に空を見上げた彼は、確かに街の光によって星などは見えなくなっているなあ、と思った。ここ数年来、彼は銀河を見ていない。それを見たいと思ったら、東京を離れなくてはならない。
 少女は視線を街に戻した。星のない空と違い、そちらは様々な色に移り変わる光で溢れていた。
 少女はふと思い出したように尋ねた。
 「ここの名前は何というのですか」
 「名前?」
 「ええ、この場所の名前です」
 「ああ、そうか。ならば、東京――新宿と言います」
 少女の奇妙な話に付き合う気になった彼は、素直に答えた。
 「そう、東京と言うのですか」
 少女は、忙しく色を変えるネオンサインをうっとりと眺めた。もうそこには、先程の悲しみを宿した様子はどこにもなく、それはまるで、自分は今幸福でありこれ以上幸福になることは二度とないだろうというような顔であった。
 「これはみんな、人間が作った物なのですね。この建物も、道も、光も――。この世に夜がない所があるなんて――。素晴らしい……」
 「素晴らしい……?」
 こんな星も見えない場所が? 人ばかり多くて、騒がしいだけじゃないのか。
 そう思った彼は、すぐに気がついて思わず苦笑した。その星も見えず、人ばかり多くて騒がしい場所にちょくちょく出て来るのは、一体誰なんだ。
 「ええ、これだけ光で一杯なら、夜でも危険なことはないでしょう。竜も巨人も、恐れて近づかないはずです。きっと、ここに住んでいる人たちには、嫌なこともなければ、何かを思い悩むこともないのでしょうね。これだけの力を持っていて、世界を自在に動かすことが出来るのなら」
 少女は白昼夢を見るような顔で言った。それを聞きながら、彼は思った。
 ――それは……違うな、お嬢さん。ここにいたって、人々はあんたの知っている場所とそれほど変わらない。ただちょっとばかり、外界に介入する術を知っているだけだ。だからといって、人間同士の問題まで解決出来るわけじゃない。危険とか、不安とか、苦悶とかいう物には、一つ困った性質がある。それは、どのような時でも絶対になくならないということだ。ここに住んでみれば、いずれわかることなんだが――。
 それは、彼自身が身をもって知っていることであった。しかし少女は、そんな彼の想いとは裏腹に、幸福そうな表情をいつまでも崩さなかった。彼は、少女の奇妙な話はともかくとして、彼女が冗談を言っているのでないことだけは理解した。だが……。
 それからしばらくの間、二人は黙って街の明かりを眺めていた。いつまでも消えないネオンの色、通り過ぎて行く自動車のヘッドライト、道端に点々と灯っている街灯の列、そしてその間を縫って歩く人々――。これらを求めて彼はアパートから出て来たし、少女は旅をして来たのだ。それがどのような場所であれ、外から来た旅人には、そこが理想郷に見えることがある。楽園とはそのようなものなのかも知れない。彼は今東京にいる、それはとても幸福なことなのだろうか……。
 ふと、少女が時計を見上げた。長針はいつ間にか次の演奏が迫っていることを告げ、彼と彼女の過ごした時の長さを教えていた。少女は立ち上がると、そばに置いておいた袋を取り上げた。まるで、今までずっと夢を見ていたのが、突然覚めてしまったというような顔をしていた。
 「わたし、行かなくては――」
 その言葉に、彼は喉の奥に苦い物が上がって来るのを感じる。これは言っておくべきことだろうか、それとも――。
 「これから……どうするおつもりですか」
 「さあ、自分でもわかりません。わたしはとにかく、一度でいいから光で一杯の世界を見てみたかったのです。それにはもう満足しました。ここはとても美しい所ですが……でも、わたしの住む世界ではありません。だから――」
 「だから――」
 彼は、自分が新宿が好きでよく来るのにもかかわらず、ここに住む気にはなれないことを思った。都会とは、いつでも手の届く所に置くべき物で、そこでずっと生活する場ではない。
 「帰ります、何があっても――」
 少女は再び空を見上げた。星の見えない空に、いつの間に上がったのか、ただ月だけが白く浮かんでいた。彼は少女と一緒に天を見上げながら、そこに巨大な竜が飛ぶのを見たように思った。
 彼は少女の方に向き直った。
 「そうですか。帰りますか」
 「ええ、他に行く所はありません」
 少女は、彼の方に名残惜しそうな視線を投げかけて来た。その目はまるで彼に、
 「お幸せに――」
と、言っているように見えた。
 少女は彼に向かって軽く頭を下げると、袋を肩に下げて歩き出そうとした。彼は慌てて声を掛けた。
 「待って下さい」
 少女の足がぴたりと止まる。そして、怪訝な顔をして振り返った。
 「何でしょうか」
 彼はその顔を見た瞬間、喉まで出かかった言葉が急速に冷えて行くのを感じた。そして、自分には真実を告げる勇気がないことを理解した。
 「ああ……ただ、気をつけて行くように言いたかっただけです。ここは、あなたが思っているほど安全な所ではありません。確かに竜も巨人もいないが……もっと別の物――例えば、『人間』があなたに害をなすかも知れない」
 その言葉に、少女は一瞬何をいうべきか迷ったようだったが、すぐに、
 「ありがとう」
というと、ぱっと身を翻して、北向きの階段を降りていった。その後ろ姿を見送りながら、彼は思う。
 ――あの娘は帰る方法を知っているのだろうか。
 少女の姿はちらちらと雑踏に見え隠れしながら遠ざかって行った。それがもうほとんど見えなくなってしまうと、彼は先程少女が切ってみせた小石の片割れを拾い上げた。切り口をしげしげと眺めてみる。断面は滑らかで、いささかの凹凸も見られない。確かにこんなことが出来る金属はこの世界にはない。
 彼は内ポケットから自分のナイフを取り出すと、鞘を外して刀身を見つめた。見た所はなんの変哲もないただの装飾付きの短刀だ。だがその刃だけは、普通のものとは違う白く滑らかな素材で出来ている。
 少女の置いていった石をそばの手摺の上に置き、彼女のした通りに刃を当てる。少し力を込めて押し込むと、石はすっと二つに切れた。そのようなことをしても、ナイフの方には刃毀れなどまったく起きなかった。少女のいう通りなのだ。このナイフは真の持ち主が念じれば、どんな物でも切ることが出来る。彼は刃を鞘に収めて懐に戻した。使いなれた武器だけが持つ安定感があった。
 あの娘の言っていた灰色の世界――。このナイフは、あそこでだけ作ることが出来る。彼はそこに戻る術を知らない。少女は間違いを犯していたのだ。あそこからここに来たのは、彼女が初めてではない。
 彼は自分がそこにいた時のことを思い出す。竜や巨人との戦い。武器はこの短刀だけで、他には何もない。いや、そもそもあれらに傷をつけられる剣など、この短刀以外には存在しないのだ。彼は、洞窟に潜む竜を追って、何日も岩山を歩いた。あちら側では竜が人を食い、人が竜を食って生きていた。そして、巨人たちの襲撃――。彼は竜との戦いにおいても巨人との戦いにおいても、断固として怯むことなく刀を振るい、一度も負けたことがなかった。彼は、幾多の戦いにおける、歴戦の勇士だったのだ。人々は彼を賞賛し、その獲物には喜んで代価を支払った。彼は一つ狩りに出るたびに金持ちになっていったものだ。
 だが、その彼もいつしか年老いて戦いに加わることが出来なくなる。気がつけば、彼の武器は彼の意に反して重く扱い難い物になっており、体は竜たちのすばやい動きについていくことが出来なくなっていた。彼は狩りに出ることを諦めねばならなくなる。人々はそんな彼でも尊敬はしてくれたが、なぜかあまりうれしくはなかった。竜を追いかけられない自分に何の意味があるのだろうか。幸いにも家族はいない。彼は一人で旅に出る決心をした。
 あの旅の始まり――。彼は持てる限りの財産を持ちやすい宝石に換えて家を出た。長い間に貯めたそれらは、中にはかなりの値打ちのある石も入っており、しばらくの間の貯えには充分なるはずだった。彼は、たまに頼まれて竜を狩る人々に知恵を貸したり、あるいは宝石を売ったりしながら、あちらこちらを歩き回った。そして、ある日立ち寄った町で、この世界の噂を聞いたのである。
 ――そこはさまざまな色の光にあふれた世界で、竜も巨人もいない。
 彼は入口を探し回った。あの少女と同じことだ。ここにくれば、何も悪いことなどなくなると思っていたのである。そして、放浪の末に、ようやくそれを見つけてくぐりぬけ――帰り道を見失ってしまったのだ。そのことに気がついて初めて、彼はあの灰色の世界が掛け替えのない、自分の故郷であることを理解した。そしてその時には、もうすべてがどうしようもなくなっていたのである。
 しかたなく彼はこちら側の世界に留まることにした。残っていた宝石を少しずつ売って金に換え、下北沢にアパートを見つけて部屋を借り――最初のうちは戸惑いもあったが、何とか順応することが出来た。この世界は噂通りの場所であり、彼よりもずっと体の小さな人々が、光の中にひしめいている。竜も巨人も襲ってくることはなく、日々の生活を普通に送っている限りは、何の危険もないのだ。しかし、この東京の街においては、年老いた狩人など何の役にも立たない。彼はこのまま一人で一生を終わる決心をした。彼としてはそれ以外にやりようもなかったのだが――。
 少女は知っているのだろうか。あの入口は、来ることは出来ても戻ることが出来ないということを。教えてやるべきだったのかも知れないが、そんな勇気はとてもなかったし、いずれ自分でわかることだ。そしてそれがわかった時、あの少女はどうするのだろうか。彼と同じようにあきらめて、ここに住むことも出来る。しかし彼女がそのような道を採るだろうか。
 ふと彼は、先程自分が少女に気づく寸前のことを思い出した。そうだ、あの時自分は、着ている物の前が開いて、ナイフの柄が飛び出していることに気がついたのだ。それですぐに押し戻したのだが――果たして、彼が少女に気づくのと、少女が彼に気づくのはどちらが先だったのか。また、もしも少女が先だったとしたら、彼女は彼のナイフの柄に気がついていたのか。そして、彼もまた、彼女に負けず劣らず長身であることを、どう思ったのだろうか。
 少女は、なぜ、彼に話し掛けて来たのだろう。なぜ、ああも易々と自分の大切な武器を見せてくれたのだろう。
 彼は少女の勝ち気そうに結んだ唇を思い出した。そしてまた、彼女が自分に比べて遥かに若いということも考えた。この世界の噂は向こう側にも伝わっているのだ。だとすれば、少なくとも今までに誰か帰って行った者がいるということではないのか。彼女は言っていた。
 「帰ります、何があっても――」
 彼は、いつの間にか始まった仕掛け時計の次の演奏を聞きながら、カリヨン橋の階段を駅に向かって降りて行った。少なくとも、今、彼には帰る部屋がある。狭くて寒い所だが、それでも彼にとっての大事な住処だ。彼はあの部屋で一人で一生を終えるつもりでいる。しかしあの少女は――。
 彼は、彼女がナイフを胸に、帰り道を探してどこかの街角を歩いている姿を思い浮かべた。そして、同じことが今の自分にも出来るだろうかとさえ考えた。そのことを思うと、久し振りに胸が踊った。
 今、新しい探索クエストが始まる。





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