休日


 目が覚めているのは判っている。ただしばらくは、このまま瞼を上げずにいたいだけだ。顔には強烈な陽光が当たっているらしく、瞼を透かして真っ赤な世界が広がっている。小さい時から自分はどんなに明るい所でも眠れたし、今でもそれは変わらない。だからこれでも睡眠の妨げにはならないのだが、たまにはこうして目を覚ますこともないと、折角の昼寝の楽しみを確認することも出来ないのだ。
 大気は肌に心地良く、辺りは静かで、せいぜい遠くの方で吹く風の音が耳に届くくらいだ。しかしそれは決して眠りの妨げになることはなく、むしろ、他の騒音がここには存在しないことを証明する手助けになるようなものであった。
 しかし、実際、昼寝の楽しみとはいつの時点で確認出来る物なのだろう。
 もう何度も心に浮かんで来ている疑問である。睡眠欲とは、当然ながら起きている時にしかやって来ない。しかし、他の欲望――食欲や物欲など――と異なるのは、実際それが満たされ始めた瞬間、既に自分は意識を失っているわけで、現実に、
「ああ、自分は今気持ち良く眠っているのだな」
と感じることは出来ない点だ。
 だから、無闇に眠ることが好きな自分の性格を、周りの人々がきちんと理解していたかどうかははなはだ疑問である。大抵の人間は、次の日に起きて活動するための力を蓄えるために眠りに着く。自分はそうではない。本当に睡眠の心地良さそのものを味わうために横になるのだ。
 しかし考えてみれば、それを本当に自覚しているのかどうかは、確かに自分でもわからない。強いて言えば、完全に眠りに着くその一瞬、その一刹那だけが、本当に自分が望んでいる快感の時なのかも知れない。
 そんなことを思いながら目を開けると、案の定、空には一面の青い空間が広がっていた。自分がここに来てからというもの、曇りの日はあっても雨だけは決して降らせなかった空である。その果てしない蒼穹を眺めながら寝そべりたいという望みを叶えるには屋根があっては困るわけだが、たまには雨の振る中、それから自分を守ってくれる覆いの下で横を眺めながら、そのような天候の中でも濡れずに済ませられるという快楽を感じるのも良いかも知れない。
 とは思ったが、それは贅沢というものである。休日に関する申請は、流石にそこまで融通が利くようにはなっていない。まったく人間の欲望とは限りのないものだ。何か一つの望みが完全に満たされると、今度はその一部を失ってみたくなる。考えてみれば、時間の完全な自由を享受し、それに満足出来なくなる日のために、休日とはあるのかも知れない。
 と、その時、耳元でばさばさと音がすると、何やら真っ黒な物体が、何処からとも無く耳の横に現れた。そのままの姿勢を崩さずに顔だけをそちらに向けると、一羽のからすが羽ばたいている。烏はどこが黒目だか判らない瞳でこちらを見つめ、いきなり、
「こんにちわ」
と声を掛けてきた。
 仕方なくこちらも、
「こんにちわ」
と答を返す。ここで自分以外の者と出会うのは初めてだ。まあ、たまには誰かと話すのも悪くはなかろう。
「何をしているのですか」
 声の感じでは、この鳥は女性らしい。見ただけでは烏の性別はまったく判らないが、とりあえずは淑女を相手にするように、丁寧に対応することにする。
「ご覧の通り、昼寝ですよ。いや、もちろん夜だってちゃんと寝ていますが、今は昼だからたまたま昼寝になってしまったと言うべきかな」
「へええ。そういえば、この辺はとても気持ちの良い風が吹いていますね」
「ええ。暑くもなく、寒くもなく、といったところです。いい場所を用意して貰って、喜んでいますよ。それで、貴女の方はどのようなことを?」
「はい。何でもいいから自分で空を飛びたいと言ったら、こんな風になっていました。でも、この姿は結構気にいっていますの」
「おやおや。女性は――失礼、貴女は多分女性の方ですよね。女の人達は、みんな白鳥とか鳩になりたがるんだと思っていましたが」
「それはもちろん最初に考えましたけど、何だか危ない気がしましたの。鷲とか鷹とかに狙われそうな気がして。それで烏にしたんですけど、どうかしら。あんまり心配する必要もなかったのかも知れませんわね」
「ええ。どちらにしても、烏になっていても貴女は充分魅力的ですよ。お仕事は何なんですか。いや、これはプライバシーかな」
「別に構いません。旅行会社に努めていますの。毎日他人の旅行の手伝いをしていますが、たまには自分で何処かに出掛けたくなるもんですわね。でも、飛行機とか電車だとか、そういったものは添乗の時に何度も乗っているし、だから自分の翼で飛びたくなったんです。そうしたら、申請が聞き入れて貰えて」
「それはおめでとうございます。僕の方は、とにかくただ気持ちのいい所でひたすら寝てみたいと申し出ましてね。それでここにいるわけです」
「まあ。でも、退屈じゃありませんか。ただ寝ているだけなんて。何もこんな所に来なくても、普段だって出来ることだし」
「いやあ、どうしてなかなか、そうもいきません。僕の住まいはもっと喧しい街中にあるし、そもそも無趣味で他にやりたいこともあまりないんです」
「ふうん」
 ここで初めてやや擦れた感じの物言いが聞かれる。普段の仕事の故か、他人行儀な態度が身についているのだろうが、ある程度力を抜くと流石に地が出るのだろう。いずれにせよ、自分にとっても彼女にとっても、今は休日の最中だ。
「では、もっとゆっくりお話していきたいんですけど、他にも飛んでみたい場所がありますから」
「ああ、さようなら。またお会いしましょう。と言っても、戻ったらそちらでは僕が判るとしても、僕の方では駄目ですね」
「ええ」
 烏は再びバタバタと翼を鳴らして行ってしまった。後に独り残されて、改めて自分も休日の続きを満喫することにする。
 手足を伸ばしたまま空を見ると、多少雲が出て来たようだ。自分が寝転がっている人型の岩の柱も、その影の中に入り始める。
 それにしても無用の用という言葉があるが、この柱は余りにも無駄がなく作られ過ぎてはいないか。ちょうど自分が大の字に手を伸ばして寝た時そのままの形に、この山間に垂直にくり抜かれているのだ。この形で何千メートルかを屹立しているので、寝返りを打つことはおろか、ちょっと姿勢を変えただけでも遥かな奈落に落ちてしまいそうだ。
 しかしまあ良い。自分は寝相は悪くないというか、普段から大の字をずっと崩さずに眠れるのだ。別に高所恐怖症でもないし、これで充分事足りる。
 改めて目をつぶると、いつか心は朦朧としていき、与えられた休日の残りを埋める睡眠時間が訪れてくる。烏は二度とやって来なかった。


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