幽玄抄




           花といふは、余の風体を残さずして、幽玄至極の上手と人の思ひ慣れたる所に、思ひの外に鬼をすれば、めづらしく見ゆるる所、これ花なり。しかれば、鬼ばかりをせんずる為手は、巌ばかりにて、花はあるべからず。
          ――「風姿花伝」第七 別紙口伝の序
 今は昔、百余年に渡って続いた室町幕府の権力がようやく衰退の兆しを見せ始め、地方にはあまたの守護大名、戦国大名が続々と名乗りを上げ出したころ、美作の守護・赤松満祐が自邸にて将軍・足利義教を謀殺した嘉吉の乱に続いて、次代の将軍・足利義勝が病死した。そのとき義勝はわずか十歳、夜毎訪れる悪夢に脅えた末の狂死であった。京の人々は、これこそ室町幕府の真の最後を意味するものだと噂しあったが、さて、義勝がどのような夢魔にみまわれたものなのか、そこに現れたのが何であったのか、それは今となっては知る術もない。
 この物語はここから始まる――。

 嘉吉三年、北陸道の一島・佐渡にて…………。

 莫迦に大きな満月が中天に在って、辺りに青白く冷たい光を投げかけていた。その薄明かりの中ではすべてが淡い光を放ち、まるで夜光虫か光ゴケにでも包まれているようだ。周囲は深い夜の静寂に満ち、空気は湿った土の匂いがした。
 ここは真夜中の草原である。いかにも真夏の盛りらしく、種々の雑草が所によっては人の背丈ほどの深さにまで生い茂っている。草叢の中では鈴虫や蟋蟀が休みなしに鳴いていたが、しかしその声はかえって辺りの静けさを増しているようにも思えた。空中には数匹の蛍が舞い、これら夜の昆虫たちの他には生きるものの気配はまったくない。ここには無遠慮な人間の足跡など少しも届かず、ただ月光と虫の声のみがその場を支配しているのだ……。いや――。よく見ると、実はそうでもないようである。
 さきほどよりその場には、未だ三十五、六には達していないであろう、一人の華奢な体格の男がじっと座っていた。その顔は女のように真っ白で、表情というものがまったくない。まるで、そう――都の役者が舞台でかぶる木彫りの面のようだ。男はその顔を静かにうつむけて、じっと何事かを考えている。そばに生えているすすきが風にさやさやと揺すられ、ときおり茎や穂先が顔にぶつかるのだが、それはさほど気にもならぬようだ。彼は何があっても少しも動かず、ただただその場にじっとしている。もしも誰かが見掛けたとしたら、きっとこの人物はここに座ったなり、そのまま死んでいるのだと思ったことだろう。それほどまでも完全に、彼は周囲の静寂に溶け込んでいた。おそらくうっすらと半眼に閉じた目には、辺りのものは何も見えていないのに違いない。月光に輝く草の露も、回りを飛び交う昆虫が放つ小さな光の粒さえも…………。
 彼は、このような人里離れた場所には似つかわしくない、むしろ値打ち物といってよいような風折烏帽子と大紋の直垂を身に着けていた。錦と金襴で巧みに織られたそれは、昼の光の中で見れば、きっと鈍く豪奢に輝くことだろう。いや――むしろそれよりは、蝋燭や松明のような、「夜の光」の中でこそ映えるのかも知れない。いずれにせよ、実用性よりは見栄えのほうを重視した装束だ。彼はそれらを無造作に着込み、土で汚れることなどおかまいなしに、露でしめった草叢に腰を降ろしている。別に何をするというわけでもなく、また、眠ってしまうというわけでもなく……。どうやら、何かを待っているようである。
 彼が何を待っているにせよ、こんな場所こんな時刻に現れるとなると、その相手はこの世に生きているものだとはどうしても考えられなかった。いずれ妖怪変化の類いに違いあるまい。いつの間にやら月は雲の陰に入りはじめ、辺りは真っ暗である。同時に、彼の青白い顔もよく見えなくなっていた。雲の端から漏れた光は、ようやく物の形をぼんやりと照らし出す程度にしか過ぎない。あるいは考えてみれば、そもそもこんな場所に夜通しじっとしている彼自身のほうが、何かよほど魔性に近い存在なのかも知れない――。
 ふとそのとき、今まで半眼に閉じていた彼の目が、すっと見開かれた。とたんにその顔はどこか凄絶な――いや、この場合「清絶」といったほうがよいだろうか――までの厳しさを湛えたものに変わる。一瞬、瞳の底には情念の炎がともり、口唇はきゅっと真一文字に結ばれた。
 彼はその表情をくずさぬまま、やおら、傍らに置いてあった錦の袋に手をのばした。袋の中からは、長さ一尺二寸あまりの棒のようなものが現れた。
 それは煤でいぶした女竹に漆を塗って作った、真っ黒な能管――猿楽能の演者が囃子方に使う横笛の一種であった。そこらの大道芸人が能く手にしうる品ではない。してみるとこの男、もしかしたら大和の猿楽一座に縁のある者なのかも知れない。
 彼は笛を口唇のふちに当てると、このときばかりは全身に力を込めて、一気に鋭く息を吐き出した。とたんに辺りの鈴虫や蟋蟀がぴたりと声を静める。同時に蛍さえもが一瞬その動きを止めた。笛が「片ヒシギ」と呼ばれる、能管特有の甲高い音を発したのだ。平凡な囃子方には音を出すことすら難しいといわれるこの楽器の最高音を、彼は楽々と吹きこなしている。
 男はしばらくの間、いま自分が鳴らしたばかりの余韻にじっと耳を傾けていた。笛の音はヒリッと周囲の空気を引き裂くと、そのまま草原の彼方へと消えていった。虫の声は、あれから完全に止んでしまっている。彼はそのことを確かめると、もう一度笛を口に当てた。

    思へばかぎりなく遠くも来ぬるものかな

 今度は嫋々とした、しかしほとんど調子らしきもののない旋律が辺りに流れ出す。そしてその粘りつくような音色に引きずられて、周囲にはいつしか新しい変化が生じ始めていた。
 雲が風に乗って移動し月が再び顔を出すと、笛を歌わせている彼の目の前に、何か白くて大きなものの姿がくっきりと浮かび上がってきたのである。
 それは……武家が立ち合いの際に着るような白装束に身をつつんだ、一人の年老いた鬼であった。人がこの世で出会うことのできる、もっとも恐ろしい悪鬼――深い恨みと悲しみの化身……。一瞬、天と地との間をドッと強い風が吹き過ぎた。
 鬼はその念のこもった目で、じっと彼をにらみつけてきた。痩せて引き締まった体には魔性の精気がみなぎり、両の目はすべてを熔かし尽くさずにはいられない情動に燃え――。これは……まさしく、「鬼」そのものの目だ。
 しかし、いくらその強烈な眼光で射すくめられても、あるいは鬼の全身から立ちのぼってくる妖炎にあおられようとも、彼は少しも動じなかった。鬼の念力をはねかえすがごとく、彼の吹く笛の音が辺りの静寂を払っていく。ふとその旋律線に気がつくと、鬼はハッとしたように彼の顔をのぞきこんだ。
 「おまえは……」
 くぐもった声でたずねる。
 「元雅――か」
 「はい、父上」
 言われて彼――観世元雅は、笛を置いてはっきりとした口調で答えた。初めて口を開いたその声は、よく響く澄んだ声であった。
 鬼は最初の姿勢をくずさぬままに、しかし内心の興奮を隠し切れないという口調でつぶやいた。
 「これはまた、なんと驚いたことだ。今のは……たしか、『隅田川』といったな」
 「ええ、その通りです。覚えておいていただけましたか」
 「なんの、おまえが作ったものを、わしが一つとして忘れるものか。『歌占』でも『弱法師』でも序破急のすべてをそらんじているぞ。そもそもおまえに芸の花を教えたのは、みなこのわしがの仕業なのだからな」
 鬼はそう言いながら、ほっとその恐ろしい顔をやわらげた。いや――あるいは光の加減でそう見えただけなのかも知れない。なんとなれば、鬼の顔もまた元雅と同じく、固い無表情なものであったから。しかし彼の口調には、久し振りに出会った息子に対する懐かしさと、自ら変じてしまった今の姿を恥じるかのようなためらいが溢れていた。
 鬼は再び口を開いた。
 「いったいどうしたというのだ。こんな佐渡の山中にまで――」
 「鬼が出るという噂を聞いてやって参ったのです。父上はいつも、花伝の中で教えてくれたではありませんか。『鬼になるは易く、老翁になるは難し』と――」
 「そうか。そうであったな」
 「父上――。いったい、何故にまた、そのような浅ましいお姿になってしまわれたのですか。京では、義教様に続いて義勝様までが亡くなりました。夜ごと夢に現れる、恐ろしい鬼の幻影にうなされながら――。都では、あれは佐渡に流された何者かによって呪い殺されたのだと、もっぱらの評判です。私はその話を聞いたとたん、鬼というのが誰のことであるのか、すぐにわかりました。父上――。もう、おやめ下さいませ。ここまでで充分ではございませぬか。いずれ足利の世もそう長くはないでしょうし、観世の名は元重様が立派についでおられます」
 彼は鬼に向かって静かに語り掛けた。その口調は、聞いた者すべてを納得させるだけの気迫に溢れていた。しかし鬼は、観世元重の名を聞いたとたんに、さっと今までの暖かさを隠してしまった。
 「音阿弥だと? ふん、あんな奴。あいつごときに、芸の花がわかってたまるものか。あいつの猿楽には幽玄のかけらもないではないか。舞台映えのする衣装、華やかで耳触りの良い囃子方――。そんなものが何になる。花は人の中にこそあるのだ。物の中にではない」
 鬼は軽蔑したようにいいはなった。さきほどまでとは打って変わった、冷たく意地悪い口調であった。
 「将軍家が音阿弥を推したのは、やはり過ちだった! あいつにとっては芸の幽玄よりも、観世の名とその権力のほうが大切なのだ。見ているがいい、元雅。今に観世の名は、全き武家の傀儡と化してしまうに違いない。音阿弥の権力欲と、義教のきまぐれのためにな! わしを佐渡まで流しただけでは飽き足らず、そのような因の源までも作った足利将軍家を、わしは決して許すまいぞ」
 一瞬、辺りを一陣の風が吹き抜けた。それはまるで、鬼の心底に沈む悲しみと怒りが、竜巻となって吹き過ぎたかのように見えた。
 しかし元雅は、父の興奮とは対象的な醒めたようすでこう言った。
 「父上。父上は大変な間違いを犯しておりますぞ。その父上の持つ恨みが都のほうでどんな結果を引き起こしているか、貴方は少しでもご存じか」
 「知らぬ。興味もない。ただわしは、芸の花が枯れぬうちはさんざわしを持てはやしておきながら、いざ芸にヒビが入ったとたん、もう用はないとばかりにこの佐渡にわしを流しおった義教と足利将軍家を呪ってやりたいだけ」
 「では、これをごらん下さいませ! このものが、そも私のここに参った真の理由です。これをなんとお考えか」
 言いながら元雅は、さきほどの袋から笛とは別なもっと長い物を取り出して、鬼のほうに放ってよこした。鬼は怪訝な顔でそれを見下ろした。
 「これは?」
 「拾ってごらんなさい」
 「やっ、太刀ではないか」
 それは古びた安物の刀だった。鞘は漆が剥げてぼろぼろになり、柄も紐がほどけかけている。どうみても、雑兵辺りが使うのにふさわしい品である。
 「これがどうかしたのか」
 「それは、かの結城合戦の場で拾ってきたものです。しばし、その鞘を抜いてみていただけませぬか。さすれば、私の言いたいことがおわかりになるはず――」
 言われて鬼は、パチンとその刀の鯉口を切った。ガリガリと音を起てて、刀身が露わになった。
 「むっ、これは……」
 鬼が奇妙な声を上げたのも無理はない。太刀の刃はこびりついて固まった人間の血で、真っ赤に染まっていたのである。
 「おわかりになりましたか、父上。それが貴方の抱いていらっしゃる足利への恨みの結果です。父上が足利を呪うことをおやめにならぬかぎり、まだまだ多くの人の血が流されることでしょう。そのことを憂えて、私はここまでやって参ったのです」
 元雅は厳しい表情で鬼をにらみつけた。
 「父上……。駿河で亡くなった御祖父様――清次様は我々に何を教えて下さいましたか。芸でしょうか、それとも父上の言われる『花』でしょうか。いえいえ、それだけではないはずです。御祖父様の猿楽はすべての人に愛されました。武家だけではなく、町人や民百姓にさえも……。それは技巧や幽玄の境地のみならず、御祖父様の人柄が皆に愛されたからです。しかるに、いま父上のなさっているは何事か。足利の守りを頼りにして、それがなくなれば今度は相手を恨む始末――。あげくの果ては、鬼にまで変じて人々の血を流させるとは、なんと情けないことでしょう。その太刀を染めている血の色を、よくご覧なさいませ。それこそが、いま父上の咲かせている『花』なのですぞ!」
 元雅は、この最後のところをほとんど叫ぶように口にした。しかし鬼はカラカラと笑ってそれに答えた。
 「何を賢しらなことを――。確かにこの太刀は赤く染まっているが、これは足利の血、足利の肉。それこそ本望ではないか。わしの恨みの念は京までとどき、嘉吉の乱や義勝の死をも引き起こした。あとは幕府を滅ぼすも時間の問題だ。おまえだとて、足利には仇を抱く身のはず。何故にわしの思惑を邪魔立ていたすか」
 鬼は刀を鞘にしまうと、ばしっと元雅に投げて返した。刀は地面に跳ね返って、元雅の肩に当たった。
 「足利だけではない。上杉も赤松も、わしは武家という武家をすべて呪ってやるつもりだ。見ているがいい。この後、すべての地表はあまねく合戦の嵐に覆われ、武家どもの血と悲鳴で埋めつくされることだろう。どちらを向いても血、血、血――。わしはそれをこの佐渡から眺め、愚かな武家どもをあざ笑ってやるのだ」
 鬼は両の目をギラギラさせつつ、もう一度カラカラと高笑いをしてみせた。元雅はそのようすをながめながら太刀を拾うと、今度は自分で刀身を露わにした。その顔には、どうにもやり切れない表情が溢れていた。
 「やはり、そうお思いですか。それではどうやら父上は、本当に鬼になってしまわれたのですね。なんということ……。あの誰にも真似のできぬ美しい舞いを人々に見せた、観世元清が……。それにしても、恨みというものがこうまで人をめくらにしてしまうとは知らなかった」
 元雅は立ち上がって鬼に剣を突き付けた。
 「父上。よくご覧なさいませ。父上はこれを足利の血だと言われます。合戦に狂った、愚かな武家どもの血だと――。しかしこの刀、これは将のものではありません。貧弱で安手の造作、すぐにこぼれる粗末な刃――。これはただの雑兵刀です。おそらくこれの持ち主は、自分の戦う本当の意味もわからず、ただ上からの命令のままに合戦の場へと赴いたのでしょう。いったい足利や結城の配下には、そのような兵が他にも何人いたことか。父上が呪ったは、ほんの一握りの武士のみであるはずなのに……。そしてこの血、これがそも誰のものなのかは、父上だとておわかりのはず――。これは……合戦に巻き込まれた百姓の血です」
 元雅は剣を構えたまま、鬼に向かって一歩近づいた。彼の左手から、ぽとんと鞘がすべり落ちた。
 「合戦は武家同志の戦い、しかしその流される血はすべて他の人々のもの――。この不条理を父上は何と心得まするか。私怨を晴らさんがため鬼に変じて武家の戦いに手を貸し、領民の生活を脅かすが観世元清の本意なれば、たとえ父なりといえども許すわけにはいきませぬ」
 元雅の若さ故の情熱であった。その言葉は多分に気負いに満ちていたが、それでも彼の持つ一途な気迫に気圧されたか、元清と呼ばれた鬼はすっと後ろに退いた。
 「むっ。では、いったいどうするというのだ」
 「貴方を……斬らねばなりません。父ではなく、私怨に燃えた一匹の悪鬼を――。今の私にはそれしかできない。そのために、私はここまで参ったのです。父上――覚悟召されよ」
 元雅は静かな口調で、しかし断固としてそう言い放った。彼は手にした太刀をすっと横向きにかまえた。
 「なるほど。だが尋常の刀でわしを倒すことはできんぞ。この身は足利に対する憎悪の念で守られておるのだからな」
 「わかっています。しかし、父上が一己の怨で守護されているというのなら、私の握っているこの刀には民百姓の恨みがこもっている。結城合戦で亡くなった者、嘉吉の乱に巻き込まれた者、あるいはこれから父上が引き起こすであろう合戦に巻き込まれるはずの者――。それらが凝り固まった刃とあれば、何の鬼の一匹や二匹、斬れないはずもありません」
 元雅の手にした太刀が、ぼうっと青く光り始めた。多くの人々の持つ「気」の光であった。
 「そうか。しかしなんといわれようとも、一度足利に抱いてしまったこの恨み、いまさら自分でもどうすることもできない。恨み故に鬼に変じてしまった後では、足利を滅ぼし尽くさないかぎり、わしはもはや成仏することすらできないのだ。来い、元雅。この悪鬼の法力とおまえの太刀の捌き、いずれが勝るかここは立ち合ってみるしかあるまい」
 鬼はそういいながら、両手を大きく広げて呪法の印を結んだ。それを合図に風が再び舞い上がると、ドッと二人の体にたたきつけてきた。元雅が低くくぐもった声で叫んだ。
 「では参りますぞ、父上!」
 すっ、と音もなく地を蹴って鬼のほうに踏み込む。正規の剣を習ったことはないながらも、舞いと猿楽の演技でつちかったしなやかさを内に秘めた、素直な身のこなしであった。元雅の刀は円を描いて鬼の体を横に薙ぎ払う。しかしそれも、もとはといえばこの鬼自身に習った技であった。鬼は元雅よりもさらに軽やかに身をかわすと、宙を一回転して元雅の後ろに舞い下りた。
 「ふむ、見事な動きだな。よくぞ、そこまで成長した。さすがは観世流三代目とわしが見込んだだけのことはある。だが笑止なり、元雅。その程度の技でわしに挑むとは――。見ろ!」
 鬼は一声そう叫ぶと、両手に念を込めて突き出した。一瞬、辺りの野山が真っ赤になる。下草や低木が炎を上げて燃え出したのだ。鬼の法力のなせる業であった。元雅の体は、あっという間にその高熱に包まれた。
 「どうだ、元雅。所詮、人の力では魔性の念に勝つことはできないのだ。わしが自ら望んで妖怪に変じたのも、その法力に頼むため。はやあきらめて、わしの本願を成就させるがよい」
 鬼はそういいながら、元雅のほうに一歩近づいた。同時に炎の輪は少しずつその半径を縮めていく。もはや鬼の勝利は決定的なものに思えた。しかし――。
 「むっ!」
 燃えさかる下草の根元が、元雅のいる辺りでバサッと横に払われた。とたんに炎の勢いが弱まると、その中から元雅の姿が火傷一つ負わずに現れた。
 「父上――。倭建命の故事をもはやお忘れではありますまい。たしかに父上の法力は恐ろしいものです。しかし邪念は所詮邪念にすぎません。いつまでもそのようなものが通用するとお思いなさいますな。その証拠に、この剣の一撃を受けてごらんなさい!」
 いうがはやいか元雅は、先程よりもさらに力のこもった身のこなしで鬼に斬りかかった。ぐきっ、という鈍い音とともに鬼の腕が宙を舞った。
 「ぎゃっ」
 鬼は今までの落ち着いたようすには似つかわしくもない、動物的な悲鳴を上げた。その左腕が肩の所で見事に切断されている。真っ赤な鮮血が辺りに飛び散った。
 「むう、元雅。よくもこの父に刃を向けたな。ならば鬼と変じたこの身の恨み、しかと思い知らせてやる!」
 鬼は今度こそ本当の怒りの声を上げると、残ったほうの腕で元雅の刀をわしづかみにして、ぐいと力を込めて引っ張った。とたんに刀は根元からぽきりと折れてしまった。
 「どうだ! これでおまえの手には武器は何もなくなったぞ。もはや為す術は何もあるまい。どうやらここまでのようだな」
 鬼は勝ち誇ったように、しかし目の底に悲しみの色を湛えて、元雅の頸に手を掛けた。彼があと少しでも力を加えれば、元雅の頸骨は簡単に折れてしまうだろう。このような形で息子と別れねばならぬことが、鬼にはつらくてたまらないようであった。
 「さらばだ、元雅――」
 鬼はそうつぶやくと同時に、元雅の喉をつかむ腕にぐっと力を込めた。次の瞬間、月光の中に無気味な叫び声が上がり、二つの影がさっと分かれた。
 だが――。
 意外なことには、顔を押さえてそこに膝をついたのは、その鬼のほうだったのである。いつの間にやら元雅の手には何か黒くて細長い物が握られており、その先端が鬼の顔にたたきつけられていたのだ。元雅が握っている物――それはあの女竹の笛であった。
 「元雅……」
 みしみしと音を起てて鬼の顔に亀裂が入る。血は一滴も出なかった。鬼の顔と見えたのは木彫りの能面であった。今まで表情が変わると思えたのは、すべて見る角度と光の加減の仕業だったのである。
 「元雅。よくぞわしの念の本体を見抜いたな。どうしてわかった」
 「いいえ、わかったわけではありませぬ。ただ父上が仕舞の奥義で教えて下さったとおり、すべて心の赴くままに体を動かしただけ――」
 「そうか。それでは、わしの教えも無駄ではなかったというわけだな。完全にわしの負けだ。しかし、元雅――。これですべてが終わったわけではないのだぞ。いずれわしが何もしなくとも、足利の天下は音を起てて崩れていくに違いない。あのような武力による支配などは、そう長くは続かぬものだからな。そしてまた、そのためには多くの争い事と人々の犠牲が必要だ」
 「はい、心得ております。ただ私は、自らの父がその争いの源となっては欲しくなかっただけ」
 「そうか。では、今度こそ本当にさらばだな」
 鬼の顔からぽとりと面の破片が落ちた。元雅の目に、一瞬あのやさしかった父の顔が映る。しかしそれもすぐにぼやけて見えなくなり、次の瞬間、観世元清の姿はふっと闇の中に消えていった。そして後には、ただ彼の被っていた面だけが残った。
 「――終わったか」
 元雅は笛を降ろしてつぶやいた。激しい戦いにも拘わらず彼の体には傷一つなく、息も少しも乱れてはいなかった。彼は遠く地平線の彼方に目を移した。
 ――いずれ足利の天下は、音を起てて崩れていくに違いない。
 元清が最後に遺した言葉である。錦の袋に笛をしまいながら、元雅は父のいうことをまことにそのとおりだと思った。巷には疫病と餓死者が溢れ、あちこちで土一揆が繰り返されていることを知りながら、天下取りに明け暮れる武家の者共は何ら有効な手段を講じようとはしない。いったい領民の支持を受けないような施政者に、どんな天下があるというのだろうか。まこと足利の世は先が長いことはあるまい。
 突然、元雅の心を激しい脱力感が貫いた。そのような世界の流れの中にあって、個人の力が何程のものになるというのか。考えてみれば、かつてどのような英雄豪傑といえども、真に天下を取って世の中を変えた者など一人もいはしないのだ。無限の時間との戦いなど、遠く人間の力の及ぶところではない。彼はがっくりと肩を落として父の遺した面を見つめた。あるいはその姿は、いま自分がしてしまったことを後悔しているようにも見えたかも知れない。その採った方法はともかくとして、父・元清のいっていることは決して間違ってはいなかったのだ。
 いつしか東の空がしらみはじめ、夜明けが近いことを教えた。元雅は南の方角に向かって静かに歩き出す。その姿は朝の光の中で次第にぼやけていき、やがて完全に消えてしまった。彼もまた、あの父と同じく魔性の存在なのであった。
 その後、観世元雅の霊を見た者は誰もいない。

 大和猿楽能の始祖の一人・観世元清――通称世阿弥は、始め観世流を継ぐべき男児になかなか恵まれなかった。そこで甥の元重(音阿弥)を三代目にすべく教育したのだが、後に実子・元雅が生まれてからは、元重を贔屓にする将軍・足利義教との間の溝が深まり、伊勢国安濃津で元雅が死んだことを契機に、佐渡に流されることになる。彼がその後どうなったのか、許されて妻・寿椿のもとに帰り、女婿の金春禅竹とともに余生を送ったというのはただの推測に過ぎず、詳しいことは何もわかっていない。おそらくは足利を恨みつつ、そのまま佐渡で客死したのではあるまいか。世阿弥は強い念の持ち主であったと伝えられる。その念が、あの猿楽能の幽玄と彼自身の出世を産んだのだ。
 一四六七年、京に於いて「応仁の乱」勃発――。この、十年にも渡って続いた内乱によって、足利室町幕府は完全に崩壊、以後日本全国は長く苦しい戦国の世を迎えることになるのだが、このことが果たして世阿弥元清の呪いに因るものなのかどうか、それはむろん定かではない…………。





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