人生という無色の糸
――「緋色の研究(延原謙・訳)」
よく言われることだが、ホームズ物語は他の探偵小説シリーズに比べて殺人が少なく、犯罪を構成しないものすらある。これがどの程度のものなのか、実際に数えてみるのも面白そうだ。そこで実際にやってみたのが、下記の結果である。
事件 | 事件の発端 | 事件の本質 | 犯罪事実 | 殺人の有無 | |
---|---|---|---|---|---|
1 | 緋色の研究 | 殺人 | 殺人 | あり | あり |
2 | 四つの署名 | 奇妙な出来事 | 過去の殺人強盗 | あり | 微妙 |
3 | ボヘミアの醜聞 | 脅迫 | 脅迫 | 微妙 | なし |
4 | 赤髪組合 | 奇妙な出来事 | 窃盗 | あり | なし |
5 | 花婿失踪事件 | 失踪 | 結婚詐欺 | 微妙 | なし |
6 | ボスコム谷の惨劇 | 殺人 | 殺人 | あり | あり |
7 | オレンジの種五つ | 脅迫(過去の殺人を含む) | 殺人 | あり | あり |
8 | 唇の捩れた男 | 失踪 | 自分で隠れる | 微妙 | なし |
9 | 青い紅玉 | 窃盗 | 窃盗 | あり | なし |
10 | まだらの紐 | 怪死 | 殺人 | あり | あり |
11 | 技師の親指 | 暴行 | 贋金作り | あり | 未遂? |
12 | 花嫁失踪事件 | 失踪 | 逃亡 | なし | なし |
13 | 緑玉の宝冠 | 窃盗 | 窃盗 | あり | なし |
14 | 椈屋敷 | 奇妙な出来事 | 監禁 | あり | なし |
15 | 白銀号事件 | 殺人 | 八百長 | あるが、別の所 | 事故 |
16 | ボール箱 | 殺人暗示 | 殺人 | あり | あり |
17 | 黄いろい顔 | 奇妙な出来事 | 行き違い | なし | なし |
18 | 株式仲買店員 | 奇妙な出来事 | 詐欺 | あり | なし |
19 | グロリア・スコット号 | 脅迫 | 脅迫と過去の犯罪 | あるが、別の所 | 過去にあり |
20 | マスグレーヴ家の儀式 | 失踪 | 見殺し | 微妙 | 事故 |
21 | ライゲートの大地主 | 殺人 | 殺人 | あり | あり |
22 | かたわ男 | 殺人 | 事故 | 微妙 | 事故 |
23 | 入院患者 | 奇妙な出来事 | 脅迫殺人 | あり | あり |
24 | ギリシャ語通訳 | 誘拐 | 強制結婚 | あり | あり |
25 | 海軍条約文書事件 | 窃盗 | 窃盗 | あり | なし |
26 | 最後の事件 | 大規模な犯罪団 | 大規模な犯罪団 | あり | 他にあるはず |
27 | バスカヴィル家の犬 | 怪死 | 殺人 | あり | あり |
28 | 空家の冒険 | 殺人 | 殺人 | あり | あり |
29 | ノーウッドの建築師 | 殺人 | 自分で隠れる | あるが、別の所 | なし |
30 | 踊る人形 | 奇妙な出来事 | 殺人を含む脅迫 | あり | あり |
31 | 美しき自転車乗り | 奇妙な出来事 | 強制結婚 | あるが、別の所 | なし |
32 | プライオリ学校 | 失踪 | 誘拐 | あり | あり |
33 | 黒ピータ | 殺人 | 殺人 | あり | あり |
34 | 犯人は二人 | 恐喝 | 恐喝と別の殺人 | あり | あるが、別の所 |
35 | 六つのナポレオン | 器物損壊 | 窃盗 | あり | あり |
36 | 三人の学生 | カンニング | カンニング | 微妙 | なし |
37 | 金縁の鼻眼鏡 | 殺人 | 過失致死 | 微妙 | 事故 |
38 | スリー・コータの失踪 | 失踪 | 逃亡 | なし | なし |
39 | アベ農園 | 殺人 | 殺人 | あり | あり |
40 | 第二の汚点 | 窃盗 | 窃盗(殺人は無関係) | あるが、別の所 | あるが、別の所 |
41 | 恐怖の谷 | 殺人 | 自己防衛 | あるが、別の所 | 微妙 |
42 | ウィステリア荘 | 奇妙な出来事 | 殺人 | あるが、別の所 | あり |
43 | ブルース・パティントン設計書 | 窃盗 | 窃盗 | あり | なし |
44 | 悪魔の足 | 怪死 | 殺人 | あり | あり |
45 | 赤い輪 | 奇妙な出来事 | 大規模な犯罪団 | あるが、別の所 | あるが、別の所 |
46 | フランシス・カーファクス姫の失跡 | 失踪 | 誘拐 | あり | 未遂 |
47 | 瀕死の探偵 | その他(としか言いようがない) | 殺人 | あり | 未遂(別の所であり) |
48 | 最後の挨拶 | その他(としか言いようがない) | 戦争犯罪 | 犯罪と言うよりは、戦争 | なし |
49 | マザリンの宝石 | 窃盗 | 窃盗 | あり | 事件自体にはなし |
50 | ソア橋 | 殺人 | 自殺 | 微妙 | ある意味で未遂 |
51 | 這う人 | 奇妙な出来事 | 新薬の実験 | 多分なし | なし |
52 | 吸血鬼 | 暴行 | 殺人防止 | あるが、別の所 | 別の所で未遂 |
53 | 三人ガリデブ | 尋ね人 | 窃盗 | あり | なし |
54 | 高名の依頼人 | 結婚詐欺? | 結婚詐欺? | あり | 事件自体にはなし |
55 | 三破風館 | 奇妙な出来事 | 隠蔽工作 | あり | なし |
56 | 白面の兵士 | 奇妙な出来事 | 隠蔽工作 | なし | なし |
57 | 獅子の鬣 | 殺人 | 事故 | なし | 事故 |
58 | 隠居絵具師 | 失踪 | 殺人 | あるが、別の所 | あり |
59 | 覆面の下宿人 | 奇妙な出来事 | 過去の殺人 | あるが、別の所 | 過去にあり |
60 | ショスコム荘 | 奇妙な出来事 | 隠蔽工作 | 微妙 | なし |
確かに殺人は少ないようだ。もう少し詳しく数えてみるとしよう。
まず、通常の推理小説で「殺人事件」と呼ばれるものは、簡単に言って、死体の発見→探偵の操作→犯人の指摘、と言う形を取る。例えばクイーンの「ドラゴンの歯」や「レーン最後の事件」などのように、事件の発端が殺人と関係なくとも、死体が出て来れば後はだいたいこのパターンだ。何だ、当たり前じゃないかと言われそうだが、実はホームズ物の場合、本当にこの形を取っているものは非常に少ないのである。
何と、死体もしくはそれに類する物から事件が始まるものは、全60話中16しかない(1、6、15、16、21、22、27、28、29、33、37、39、41、44、50、57)。しかもそのうち、22と37は殺人と言うよりは事故か過失、15、57は動物が犯人(10の毒蛇や27の犬は、犯人ではなく凶器)、29と50は殺人に見せかけただけ、41は正当防衛だが、まあ、一応殺人に入れてもいいだろう。57は、話の中心は馬の失踪であるとも言える。
つまり、明らかに殺人事件として話が始まり、きちんとホームズの操作で犯人が捕まるものは、10あまりしかないことになる。これは全体の比率からすれば、確かに少ない。ヴァン・ダインやノックスのように、推理小説は殺人が好ましいと思っていたものから見れば、多分ホームズ物は明らかに失格だろう(もっとも、ホームズ物は所謂「本格」ではないが)。
さて、それ以外のパターンについてである。
まず、明らかに殺人事件として分類してもいいが、死体で始まらないものがある(7、10、23、58)。このうち7は、そもそもオプンショウの殺された方法や状況についてはまったく解明されていない。これは推理小説としては特異な事と言える。
次に、殺人が起きてはいるが、事件の中心にないものがある(2、24、30、32、35、42、47)。それぞれの事件の中心については上を見て下さい。また、19、45、59は、殺人は起きているが、それは事件の中ではなく、遠い過去の出来事だったりするし、34、40、45の事件内での殺人は「犯人」によるものではない。46と52の殺人は未遂、26は殺人というよりは決闘だ(結果としてホームズは生きていたわけだし)。49のシルビアス伯爵、54のグルーナ男爵は重要な殺人者かも知れないが、事件内では殺人は犯していない。
更に進んで、3、4、5、8、9、11、12、13、14、17、18、20、25、31、36、38、43、48、51、53、55、56、60はまったくあるいはほとんど殺人と関係なく、更にその中で、8、12、17、20、36、38、51、56、60は、そもそも「犯罪」ですらない(ただし、3の脅迫、5の結婚詐欺、55の暴行は一応犯罪か)のである。48に至っては探偵小説ではなくスパイ物だ。
ホームズ物の特異性は、まさにここにあるのだ。
別の所にも書いたが、大衆文学の書き方は基本的に一つしかない。「主人公が問題を抱え、それをいかに解決するかを描くこと」、これだけである。他の推理小説の多くは、主人公の抱えた問題を「犯人探しとトリックの謎解き」に当てている。しかしホームズの求めているのは事件そのものの円満な解決であり、本当の困難は犯人がわかった後にこそある(52を読めばわかる)。だから彼は、しばしば犯人や殺人者を見逃してしまうのだ(5、6、9、22、34、39、40、44、55、59)。
パスティッシュやパロディを書く際には、忘れてならないことだと思う。