たまには重苦しい話題もいいかな。

 私は10年以上に渡って抗鬱剤を飲み続け、ある日事情があって「危険」と言われる急な自己流の断薬をすることになりました。理由は色々あるのですが、説明は控えます。前々から医師には、
「薬止めたら、死んじゃいますよ」
と言われていたのが、それから経った今、こうしてちゃんと生きているわけですが、もちろんこれは私のやったことが正しいということではありません。こういうことは、きちんと医師の指導に従って下さい。たまたま私とその時の医師の相性が悪かっただけで、決してお薦めは致しません。現に離脱症状はそれ程でもなかったのですが、今でもパニック障害と思われる症状に苦しんでいます。ただ、それが原因で総合診療科に行くことになり、入院して糖尿病が改善したのだから皮肉なものです。
 問題は、私がどんなに動悸や不安に悩まされようと、抗鬱剤の使用を再開する気になれないことです。これも理由は色々あるのですが、少なくとも内科や人間ドックの複数の医師が、心臓などには異常が見られないと言ってくれている、つまりこれはあくまで心因性であって、命には差し支えない。ならば、「そんなものに負けちゃいけない」という強い意志さえあれば何とかなる、というのがあります。これが勤めでもしているのならともかく、私はとっくに仕事を引退していますから、しばらく休めば差し支えはありません。この不安感に実体としての危険はなく、あくまで私の認識に過ぎないのですから。

 さて、こういう状態だと、人は自殺を考えるかも知れません。自殺するくらいなら薬に頼るのも一つの手でしょうが、此処ではそうでない、私の考え方を書きます。
 この世界の生物は、他の生命を食べて生きています。それは相手が動物でなくても同じ、たとえ植物だろうと原生生物だろうとそれは立派な生命であり、こんなこと、SF界では常識です。植物や原生生物の異星人、小松左京さんの「人類裁判」、新井素子さんの「グリーン・レクイエム」、この問題を扱ったSFはたくさんあります。私達は他の生命を食っている罪深い存在なのです。でも食べなければ、自然界から預かっている「一番大切な生命であるこの『自分』」を殺してしまう。要は生命とは「そういうもの」なのであって、これはどうしようもありません。
 で、ある日私は、公魚わかさぎを食べている時にそのことについて考えていたら、公魚の声を聞いた気がしました。
「俺の命をやったのだから、しっかり生きろ。お前がちゃんと生きなかったら、俺は犬死だ」
 言うまでもなく、生命の本質は「とにかく生きる」ことそのものです。だから我々には、生命を伸ばす為の様々な能力が備わっています。時に我々を苦しめる苦痛(怪我などをしていることを知らせ、治療をうながす)、不安や恐怖(危険から逃がす)なども、元々は進化の過程で備わってきたもの。ダーウィンの自然選択説に従えば、そもそも生きることを望まない、不安も苦痛も持たない生物など、とっくに滅びているでしょう。
 つまり私は、自分が他の生命を食っている罪深い存在だから「こそ」、それをくれた生命に申し訳ないことはすまい、何があっても自殺はしない、と決めているのです。そうしなければ、前述の公魚のように、私が食べた生命は全て無駄になってしまう。動物だけではない、地面に蒔かれなかった種子である米や麦、発酵食品に含まれる微生物、そもそもそれらの生命もまた、他の生命からエネルギーを貰っているのですから、食物連鎖(網)の、とりあえずは最後にいる私は、膨大な生命の犠牲の上に成り立っている。では、私がいなかったらそれらの生命は助かったのかというとそうでもなく、例えば鯨一頭の救出は、とてつもない数のプランクトンの犠牲を伴うのです。前述の「グリーン・レクイエム」など読むと、もしかすると動物一頭を食べることによって、太陽からエネルギーを変換してくれている植物を大量に助けられるのではないかという気もしてきます。となると、出来るのはとにかく自分自身がしっかり生きることしかないのではないか。最終的に責任を取れるのは、何よりもこの「自分自身の生命」である。だから、自分からそれを捨てたりはすまい。これが私の出した、現在の結論なのです。

 もちろんこんなのは、勝手な思い込みに過ぎません。元々自殺する程苦しいわけでもなし、その度胸もありません。理屈をこねれば、という程度のものです。でもまあ、とにかく私はこうして生きています。色々偉そうで済みませんでした。ご清聴、有難うございます。

追伸

     この理屈でいけば、私がライオンに食べられたら、そのライオンは殺処分などにしないで欲しいということになるのですが、まあ、そうもいかんでしょうなあ。