ヴィオラは全然弾けない。ではなんでこんなところに取り上げるのかと言うと、妻が弾くからだ。目次にも書いた通り、ここには勝手な楽器論を書いているのである。
まあしかし、だ。例えば結婚式とかでピアノを弾く時に、ちょっと難しい曲の場合は一部のパートを任せたりして自分は楽をしているので、これだって楽器の一部として使っているのだと言えないこともない。コンピューターをシーケンサーにして、自分はピアノのパートを手で弾いているようなものである。シーケンサーは果たして楽器か、だとすると、テープ・レコーダーは楽器になるのか、ううん。
ところで、この楽器はもちろん御存じのように、クラシックの花形ではない。ヴァイオリン属の中では、コントラバスと並んで脇役の座に甘んじ、更にコントラバスはジャズにおいてウッド・ベースの地位を得たにもかかわらず、ヴィオラにはそんなことすらない。つまり、オーケストラや室内楽以外ではそもそも使い道があまりないのである。これほど困った楽器が他にあろうか。いや、ない(反語)。
もちろん、弦五部の中間を支えると言う重要な役割があるから、オーケストラが滅びたりしなければ、この楽器もずっと存在し続けるだろう。実際、合奏に於いては非常に大切なものらしい(らしいというのは、自分がそんな曲を作れるわけではないので、よくわからないからである)。それにしたって、いずれは脇役である。
近代から現代にかかっての作曲家の中には、この楽器の協奏曲を作った人が何人かいる。有名なのはバルトークの遺作だろう。これは実際、バルトークの曲の中でも傑作の方に入ると思う。ただ、死後に草稿が見つかっただけなので、実際には弟子との合作になるのだが――。
本当のことを言えば、もっとこのジャンルが現れてもいいとは思うのである。独創性を重んじるのなら、人があまり手を付けていない分野を開拓するのも、現代音楽の一つの努めだろう。何もトーン・クラスターやセリーだけが能でもあるまい。冷遇された楽器の発掘だってもっとあっていいはずだ。チューブラー・ベルズ協奏曲なんてどうだろう。いっちょう自分で作ってやるか。
というわけで、「ヴィオラとピアノのためのソナタ」をいつか作るぞ、と妻に言っていながらまったくやっていない。困ったものである。
尺八のむら息の例を見てもわかる通り、日本人(東洋人)は純粋な音よりも雑音が含まれている方を好む。前橋汀子やチョン・キョンファの演奏を聴くと、気のせいか弦の振動以外の「木の音」とでもいえるものが聞こえるのだ。これが西洋のヴァイオリニストだと、もっと純粋な柔らかい音になるのだが――。ヴィオラはどちらかというと、ヴァイオリンよりも木の音がする。日本人はこちらの音を好むのだろうか。そうでもないよなあ。