Music of the Spheres

Mike Oldfield

    Part One

      Harbinger
      Animus
      Silhouette
      Shabda
      The Tempest
      Harbinger (reprise)
      On My Heart

    Part Two

      Aurora
      Prophecy
      On My Heart (reprise)
      Harmonia Mundi
      The Other Side
      Empyrean
      Musica Universalis


 クラシック系の用語に「絶対音楽」と「標題音楽」という言葉がある。簡単に言って、音楽が音楽だけで完全に成立しているのが「絶対音楽」、何か物語や風景などの音楽以外の要素を曲で表そうとするのが「標題音楽」ということになり、交響曲やソナタ(そもそも「奏鳴曲ソナタ」とは、かつては単純に「器楽」を意味した)などが前者に含まれ、後者の代表として有名なのは「展覧会の絵(ムソルグスキー)」や「ツァラトゥストラはかく語りき(R・シュトラウス)」などということになるのだが――。
 もちろん、この違いを厳密に分けるのは難しい。確かにオーケストラや器楽に於ける絶対音楽の極致としての交響曲やソナタが存在するのはわかるとしても、「運命」だの「新世界から」だの「幻想」だの「悲愴」だののように副題を持つ(あとから付けられたものもあるが)交響曲などは、標題音楽ではないが絶対音楽の「極致」かと言われると疑問が残る。また、歌曲などをこの分類に持ち込むことはやはり無理と思われる(歌詞をなくして、代わりに器楽で演奏したら、元の歌詞の意味は消えるのだろうか)。
 まあ、最初っから全てを二元論に持ち込む必要もなく、ただ、「絶対音楽」と「標題音楽」というものがあることを覚えておいていただければ、この場はそれでよい。ここでの問題は、ロックについてなのだから。

 まずロックは、敢えてクラシックの言葉を使わせていただけるのなら、かなりの部分を「歌曲リート」に入れることが出来ると思う。ここには歌詞があり、素晴らしい(どうでもよいのも多いが)メッセージがストレートに、或いは婉曲に込められている。ロックに於けるこの分野での歌詞の重要さは、クラシックより遥かに大きい。
 問題は「インストルメンタル」と呼ばれている作品群である。これらは「ハードロード」だとか「星空のドライヴ」だとか「タンク」だとか「ケンタウルス座のアルファ星」などの具体的な題名が付けられていることが多く、しかし、そうするとやはり標題音楽なのかと言われれば、ま、そうでもあるしそうでもないんじゃないのかな、というくらいの曖昧な答しか返せない。何故かというと、大部分が音楽を以てその題名の内容を「表している」というようなものでは決してなく、中には単なる「そんな感じ」といった程度のものもあるし、だからといってその題名が丸っきり曲と無関係かと言えばそうでもないからだ。この辺、どうしてもしどろもどろになってしまう次第、申し訳ない。だいたい、クラシックの方ですら境界に位置するものがあるような分類を、違うジャンルに持ち込むのが無理なのかも知れない。

 だが、実はロックにも、やはりこれは完全に「標題音楽」の分類に入れてよい、と言える作品はちゃんと存在する。代表的なのはキャメルの「白雁スノー・グース」、マイク・オールドフィールドの「遥かなる地球の歌」、或いはリック・ウェイクマンの「ヘンリー八世の六人の妻」、ボ・ハンソンの「指輪物語」などである。おっと、タンジェリン・ドリームの「エレクトロニック・メディテーション」もそうかな。
 ここで一応、リック・ウェイクマンについては「地底探検」や「アーサー王と円卓の騎士」は除外する。歌やナレーションが入っているからである。クラシックにも「ピーターと狼」のような例があるが、少なくともあれには歌はない。
 これらがいわゆる「ブログレッシヴ・ロック」の分野に入っているのは、やはりこのジャンルとクラシックの親和性にもよるのだろう。ただし、ロックの分野でクラシックの手法を使った「オペラ」は、ご存じのように「ジーザス・クライスト・スーパー・スター」も「トミー」も出自はプログレではない。たとえ、プログレの側からかなりの注目を浴びたとしても、だ。

 それで、話は「絶対音楽」になるのである。ロックに絶対音楽? そもそも、世代間の共感などに支えられて成立しているロックに、そんなものがあるのか。
 まず、元々クラシックの曲だったものを編曲したようなのは、もちろん除外する(ELPの一部の作品やリック・ウェイクマンの「カン・アンド・ブラームス」など)。これらは例えどうなに優れたものであろうと、一種の「手すさび」として扱ってよい。
 そうすると、次に問題になるのが、ディープ・パープル(或いはジョン・ロード)の「オーケストラとグループの為の協奏曲」や、キース・エマーソンの「ピアノ協奏曲第一番」などである。これらは完全にクラシックの定めたソナタ形式に則り、明らかに絶対音楽の様相を呈している。
 ただ困るのは、前者は歌が入っていること、また両者ともに、クラシックのフル・オーケストラを使用している点である。つまり、純粋にロックの側から作られた手法ではなく、聞こえて来る音がかなりの点でクラシックそのもの――或いは「パロディ」――とでも呼ぶべき内容なのだ。
 これは「白雁スノー・グース」や「地底探検」のように、ロックの側からクラシックサイドに応援を求めたものとは根本的に異なる。現代のコンチェルト・グロッソとでも呼ぶべきジョン・ロードの素晴らしい協奏曲も、その基本的な思想の中に「クラシック・コンプレックス」のようなものが見え隠れするのは否めない。すなわち、「ロックに於ける絶対音楽」とは、あくまでクラシックに歩み寄ってその手法を借りたものではなく、純粋にロックの中から音楽のみを取り出したようなものでなければならない。

 と、ここまできて、ようやく私の言いたいことがわかって頂けたかも知れない。「チューブラー・ベルズ」が――もしかすると私の知る限りでは唯一――その要件を満たしているのではないかと思うのだ。
 そもそもあの曲が非常に新しかったのは、まずその点なのではなかろうか。ロックの中にあって、あくまでロックの精神を保ちつつ、純粋に音楽のみで出来ている作品。上手く説明出来ているかどうかわからないが、まず題名からがそもそも中で使われている楽器の名称である。そして、マイク・オールドフィールドの演奏には、クラシック・コンプレックスのようなものは微塵も感じられない。ロックの最大の武器の一つである「自由」そのものを具現化するように、ありとあらゆる楽器が、伸び伸びと、その場での必然性の中で使用されている。ここでは、ピルトダウン原人の声ですらが楽器の一つに過ぎない。あれがクラシックと違う手法(なのか、精神なのかはうまく言えないが)で作られていることは、現に、実際にフル・オーケストラで演奏されても余り上手くいかず、唯一、オールドフィールド自身がギターのアドリブをスパニッシュとエレキ持ち替えで演奏している部分が一番よく出来ていることでもわかるだろう。

 さて、それでやっとこの「天空の音楽」なのだが、一番最初に思うのは、「あれ、また『チューブラー・ベルズ』なのか」ということである。最初のテーマは明らかにあそこから派生しているし、第2楽章(と敢えて言わせてもらう)の最後の部分も、例の楽器紹介の部分と対比させられる。別の所にも書いたように、処女作(サリアンジー時代は抜かす)にこうまでこだわる人も珍しい。一体、何故ここまでする必要があるのだろう。
 実は総体として考えた場合、私は「チューブラー・ベルズ」を彼の代表作というには疑問がある。何故かと言えば、あれだけのアルバムを出しつつ、尚かつそのほとんどが水準作以上という中にあって、むしろ「チューブラー・ベルズ」は異色の内容だからだ。そもそも、カンタベリー系という出自を抜かせば、例えばデビュー作が「ムーンライト・シャドウ」や「トゥ・フランス」だった場合、マイク・オールドフィールドは「プログレッシヴ」というロックのジャンルに入っただろうか。もちろん、プログレというジャンルの定義の難しさを重々承知の上で書くのだが、あの特徴的なテーマを主軸とする変拍子の繰り返し、複雑なリズム構造、既成のロックとは異なる(特にドラムキットが、ビルトダウン原人の部分を抜かすとまったく使われていない)楽器編成、大作主義、そして何よりも、前述したような「ロックに於ける絶対音楽の成立」など、「チューブラー・ベルズ」は確かにその時代の「前衛」を行っていた。しかし、大作主義を抜かせば「ハージェスト・リッジ」以降、「チューブラー・ベルズ」の持っていた現代音楽的特徴は鳴りをひそめてしまう。わずかに「呪文」で第一主題に変拍子が使われているが、実はこれは「チューブラー・ベルズ」のパート1の中頃から材を採られているのである。それ以外では、「アマロック」などはかなりプログレの領域に入ると思うが、参加しているメンバーなどを抜かせば、「チューブラー・ベルズ」と直接結びつけられる作品ではない。
 つまるところ、イギリスの風土に根差し、美しいギターソロを巧みに使用した牧歌的なイメージを中心とするマイク・オールドフィールドの曲の中で、「チューブラー・ベルズ」は極めて現代的で硬質な印象を持つ曲なのだ。むしろ彼の音楽は、最初に脇によけておいたサリアンジー時代にこそ、直接つながる部分が多いのである。
 ここでふと思い出すのは、20世紀の音楽にあって多大な業績を残したバルトーク・ベラ(ハンガリーでは姓が先の筈である)が、やはり絶対音楽の極致にある「弦楽四重奏曲第5番」で、一瞬だけハーディガーディを思わせるフレーズを採用していることだ。「チューブラー・ベルズ」も、最後はホーンパイプの賑やかなメロディで終わる。最初に聞いた時は、びっくりしたものである。あれだけの新しさを持った曲の最後が、実は伝統的な民族音楽で締めくくられるのだから。そして、そのこと自体が正に「新しいロック」だと感じられたのだ。
 とはいうものの、かなり有名な曲がその作者の特徴を表していない例はたくさんある。ムソルグスキーは歌曲やオペラを中心に作曲した人だが、どうやらピアノ曲である「展覧会の絵」が一番知られているようである。同様に、チャイコフスキーの代表作は三大バレエではなく交響曲や協奏曲だろうし、ベートーヴェンの作品の中では、誰もが知っているであろう「エリーゼのために」を代表作とするには抵抗があろう。前述のバルトークも、一番知られている「オーケストラの為の協奏曲」はむしろ異色作である。

 という風に考えてみると、何故彼が、「チューブラー・ベルズ」にあれだけ拘らなくてはならないのかが、かなり不思議に思えてくる。無論その心が那辺にあるのかは判らないが、いずれにせよ、異色作を自ら代表作にしようとしているかのような一連の作品の発表の仕方は、極めて特殊なものだ。何せ、既にあれだけの名声と財力を得ているのだ。もはや自由に何を作っても構わない筈である。
 こういう場合、ほとんどの人は、一度出来てしまったイメージから抜け出す為に努力するものだ。ピンク・フロイドがああなったのも、ロジャー・ウォーターズが、過去の曲ばかり聞きたがるファンに反発したからだという。映画俳優などは、ある役と結びつけられて顔を覚えられてしまうことが多いので、そこから抜け出すのに大変苦労するらしい。
 通常、ある作品で大変に成功した人は、その後も同じ系列のものを作り続けることを期待される。マイク・オールドフィールドは「呪文」以降、そうはならず、「ムーンライト・シャドウ」のアルバムでかなりの日本人ファンを失った。言語が異なる我々にとって、聞こえる音楽が違いすぎる「クライシズ」は、やはり抵抗が大き過ぎたのだ。
 そして数年後、「アマロック」で原点回帰を宣言した彼は、「『チューブラー・ベルズ』に似た曲」を作るのではなく、「チューブラー・ベルズ」そのものをリメイクしてしまう。その後の軌跡はご存じの通りである。「チューブラー・ベルズ」は「2」と「3」を数え、続けて「ミレニアム」の名を冠した「ベルズ」、「遥かなる地球の歌」には「チューブラー・ワールド」、「ギターズ」には「3」から採った「コカイン」、そして今、「天空の音楽」が我々の目の前にある。

 この曲についてのみ言えば、確かに美しい。実は「チューブラー・ベルズ」や「アマロック」は、人によっては少々聴きづらいかも知れない。しかし、「天空の音楽」はそれほど抵抗なく耳に入るだろう。たとえ、変拍子を以て始まるとしてもだ。
 そして、オーケストラを背景にして印象的に響くピアノとギター。個人的な感想では、ピアノを最初に出すタイミングは少々まずい(やはり、きちんとしたソロで始めるべき)と思うが、いつもの彼にしては控えめなギターが、やはりこれは明らかにマイク・オールドフィールドだと思わせる。ロックを出自として、昨今流行りの「アンプラグド」をわざわざ宣言せずに、更にクラシックのパロディでもなくこのような曲を作れるのは、流石と言わねばならないだろう。
 だがそれでも、やはりこれは「チューブラー・ベルズ」である。「チューブラー・ベルズ」であって「チューブラー・ベルズ」ではない「チューブラー・ベルズ」。
 マイク・オールドフィールドは、40年もかけて繰り返し同じ曲を作り続けている――。人によっては、マンネリズムだというかも知れない。しかしこれが決して「種切れ」故に発生した作品ではないことは、他の数々のアルバムが証明している。

 事に依ると、これからも我々は、何度か新しい「チューブラー・ベルズ」を聞くのだろうか。それはまた逆に、「チューブラー・ベルズ」が如何に偉大な作品であったかの証しでもある。取り敢えず、まだまだ彼との付き合いは終わりそうにない。

宇宙暦40年4月30日


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