ドノヴァンの脳髄――Donovan's Brain

カート・シオドマク――Curt Siodmak

中田耕治訳


 SFの直接の先祖は何だろう。
 そんな肩肘を張った話ではなく、軽く読んでいただきたい。簡単に言って、大衆文学としてのSFのストーリー展開を考えるた時に、もっとも近接している領域は何かということである。大衆文学の書き方は基本的に一つしかなく、要するに主人公が何か問題を抱え、それを解決していく過程を描くだけだ。これは純文学にもある程度当てはまる。「問題の種類」と「解決の過程」と「答」にさまざまな方法があるからこそ、作品もまた、無数に生まれるのである。
 そういった見方をすると、かなりのSF作品が、「謎」の提出とその探索によって成立していることがわかる。これはもちろん、推理小説の書き方である。「ドノヴァンの脳髄」もまた、途中でしばしば主人公の心に送られる詩のようなメッセージが最後の解決の鍵となり、その送り手の意外性もあって、ある程度推理小説の匂いのする作品となっている。

 主人公パトリック・コーリイは、生物の脳を体の外で生かす研究をしていた。ある日のこと、飛行機の事故の現場に呼ばれた彼は、瀕死の大富豪ウォーレン・ホレイス・ドノヴァンの脳髄を盗み出す。そして見事培養液の中で生かすことに成功するが、脳と会話をする方法がない。友人に相談した彼が見つけた唯一の方法は、テレパシーであった。だが、ようやく交信に成功したのも束の間、彼はドノヴァンの脳髄によって、逆に操られてしまうのだ!

 ご覧のように、典型的なマッド・サイエンティスト物である。コーリイはフランケンシュタイン博士の直接の子孫だ。自分の発明によって危うい目にあうのも、まったくそのままと言える。違う所と言えば、「フランケンシュタイン」の哲学的な部分が薄れ、もっと現実的な活劇に重点が置かれている点か。
 いずれにせよ、マッド・サイエンティストは始めのうちは他人の忠告などまったく聞かない。如何に研究が危険だといわれても、「科学の進歩の方が大事」と言って研究を進める。そして実際に危機が訪れた時に、ようやく自分の愚かさに気がつくのだ。グレッグ・ベアの「ブラッドミュージック」などは、そのマッド・サイエンティストの行動を逆手にとって更に別の展開を見せるのだが、「ドノヴァン〜」はやはり古典的である。事態はきちんと収集され、主人公はなにがしかの教訓を得る。
 これが名作たる由縁は、一重に最後の解決の意外性と、巧みなサスペンスの盛り上げにあるのだろう。小説としては確かによく出来ている。歴史的に重要かと言われると少しためらうが、エンターテインメントとしては一級品。

 さて、実は読み始めてすぐ気がついたのだが、私はこれの映画化を昔テレビで見たことがあった。解決の仕方が異なるが、おおむね原作に忠実である。どこかから、ビデオででも出ていないだろうか。また、「ハウザーの記憶/Hauser's Memory」という続編もあるらしいが、残念ながらこれは手に入れていない。

宇宙暦29年6月2日)


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