この小説の作者は、言わずと知れた「ヒューゴー賞」のヒューゴー・ガーンズバックである。これには、「SF史上最も重要な作品の一つ」とか、「近代SFの開始地点」とか、そういった謳い文句が相応しいのだろう。しかし取り敢えずは、今この時点でどう読めるかを書くことにする。
簡単に言えば、こういった話だ。主人公のラルフ124C41+は27世紀最大の科学者の一人。そのラルフが一人の女性と恋仲になる。しかし、その女性に横恋慕する二人の男(地球人と火星人)が彼女をさらったために(といっても、協力してではない。一人が誘拐した後、もう一人が横取りするのだが)、ラルフは単身宇宙に乗り出すのであった。
要するに活劇である。プロットは単純でわかりやすい。例えば「デューン」のように、複雑な構造が入り乱れてどうしたこうしたということはないし、何か意外な結末が待っているわけでもない。最近の凝ったSFに慣れてしまうと、かなり物足りなく思ってしまうくらいである。
ただ、一つ重要なのは、これが最近余り見なくなってしまった「テクノロジーによって実現した明るい未来」を描いていることだ。アシモフと同じく、私は基本的にはテクノロジーの進歩は人間にとって良いことだと考えている。確かにしばしば、技術の進歩はロクでもない事態を引き起こすが、だからといって科学技術の発達が「本質的に」人間の不幸だという戯言には賛成できない。
例えば、農薬の過度な使用は人間の寿命を縮める。これは大いに問題にすべきことではあるが、かといって生化学の発達をすべて否定して、自然のままに育てば健康になるというのなら、原始人の方が平均寿命が長いはずだ。これは事実に反していないか。
自然はしばしば大災害を引き起こす。地震、台風、疫病など。公害は人間の手によってコントロール出来るが(だからこそ、積極的に防がなくてはならない。やれば出来るのだから)、これら自然の災害に対抗出来る現実的な手段は、取り敢えず一つしかない。科学の発達である。
最近のSFがつまらないのは、どうもこういった明るい未来を否定して、厭世思想に取り付かれているからだ、と何かで読んだことがある。酸性の雨が降る薄汚れた都会。そこに生きる無気力な人々。そして、ゆっくりと荒廃していく社会を、どうすることも出来ない主人公たち。こんな話を私は好きでない。私が好きなのは、それでも明るく生きている人々の話だ。
もしかすると、ラルフの住む未来は余りに明るく、あっけらかんとし過ぎているかも知れない。ここで起きている悩みは、例えば恋の問題など、テクノロジーではどうすることも出来ないものばかりだ。その辺が、今となっては少々古めかしく感じる理由だろうか。しかし、本来の科学の発達とは、こういった社会を目指していたはずのものである。この作品は、今読むと改めてそのことを思い出させてくれる。
ところで私は最後の一行を読んだ時、上のような古めかしさがあったとしても、まさにこれは現代のSFに加えるべき作品だと思った。それをここで公表する訳には行かないが、題名そのものが伏線となっているというアイディアには、正直言って驚嘆した。