影が行く――Who Goes There?

ジョン・W・キャンベル――John W. Cambell

矢野徹・川村哲郎訳


 アスタウンディング・ストーリーズの編集長、キャンベルの短編集。主にアイディア・ストーリーから成り立っているが、「エイシアの物語」のような中編もある。また、「薄暮」と「夜」など、基本的に同一の着想から出発している話も入っている。
 トータルに見て、「盲目」がアイディア的には最もまとまっているといえるか。きちんとした落ちが着いている点も、現代的である。いや、そもそもこういったアイディア・ストーリーを読むこと自体が、現在難しくなってしまっているのだ。アイディア・ストーリーを書くのは、特に短編で続けていく場合、人が思い付いていない奇妙なことを次々と捻出しなくてはならないので、結構しんどい作業である。最近では、草上仁をのぞいて日本の作家にもほとんど見当たらなくなってしまった。娯楽としてのSFを考える際、絶対に外すことの出来ないジャンルなので、もっと見直されてもいいと思うのだが――(何?、自分で書けって?)

    影が行く――Who Goes There?
       南極調査団が氷の中で発見した2000万年前の異星生物の死体は、実は生きていた。その生物は他の生物の体に寄生してそれを乗っ取り、次々と仲間を増やして行くのだ。しかも、もとの生物の記憶や能力は、そのまま引き継ぐらしい。怪物は人間にも寄生を始める。乗っ取られているのは果たして誰か。その正体を見破る方法は見つかるのか。
       正当的な怪奇SF。もちろん、きちんとSF的に解決する。それがどんなものかは実際に読んでいただきたいが、新発明の放射線なんぞでないことだけは言っておこう。ゾンビの大量に出てくるパニック物等にその子孫があるが、これが現代のそういった映画だったら、一応解決した後でアメリカに帰ると、人々がすべてその怪物になっていたりするのだろう。

    薄暮――Twilight
    夜――Night

       超未来物に分類すべきだろうが、前述のように基本的に同一のアイディアで、要するに超未来に紛れ込んで何かを見るという話である。その未来もよく似ている。詳説はしないが、「ラルフ124C41+」のような明るいものではないとだけいっておく。
       しかしこれは、厭世思想ではない。科学の発展がもたらした結果ではなく、科学の発展があったにも係らず、あまりに宇宙が人間を超越した存在であるがためにこうなったからだ。少なくとも、私にはそう思える。

    盲目――Blindness

       世界一の科学者マルカム・マッケイ博士は、新しいエネルギーの発見のため、たった一人の助手を伴って太陽に接近する。そして、その強烈な光線のために視力を失うが、代りに得たものはそれを補ってあまりある価値を持つはずだった。ところが、地球に帰った彼を待っていたのは――。
       一番アイディア・ストーリーらしい作品。きちんとした落ちもあり、起承転結にきれいに乗っ取っている。結末は皮肉な結果ではあるが、かすかな救いもある。

    エイシアの物語

       サーンという異星人に支配された地球人の、反乱の物語。これは少々力を入れないと読みにくい。地球人はエイシアという神を中心にしてサーンと戦おうとしており、サーンはマザーという不死身の指導者を中心としている。基本的にはサーンの方が圧倒的に強いはずなのだが、地球人は如何にしてそれに反撃するのか。
       全体を包んでいる「匂い」とでもいうようなものは、どちらかというとファンタジイの物である。しかし、魔法は出てこない。あくまで、テクノロジーの戦いに終始する。あまりいい例ではないかも知れないが、シルヴァーバーグの「夜の翼」あたりが持つ雰囲気といったところか(実際、今はこれを読み返している)。ただ、地球人が勝てた本当の理由が、テレパシーやマントなどの発明といったことではなく、もっと本質的な地球人の性質にあるところがこの小説の醍醐味である。

宇宙暦29年6月4日)


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