我が家の神棚。錚々たる並びですね。のアマビエは自作。神輿やしろと鳥居は自分で塗りました。ちゃんとお守りが入っています。
 神社仏閣が好きだ。

 何故なんだろうと思う。私は特定の宗教は信じていない。にもかかわらず、である。
 お断りしておくが、信じないとは否定するという意味ではない。私は無神論も信じていない。そういった物の存在は科学や観察の守備範囲外なのだから、「いるかいないか判らない」といってそっとしておくしかない。

    子不語怪力乱神

 ただ、少なくとも「造物主が人間を愛している」という世界観は受け入れがたい。背徳のソドムとゴモラを滅ぼした時、エホバは「一人でも善人がいれば、私はそれをしない」と言ったではないか。地震や津波、疫病で大量の人が死ぬ時、赤ん坊ですら悪人だというのか。いや、そもそも全知全能なら、悪人だけ選り分けて滅ぼせそうなものである。
 だから、(大乗仏典は読んでいないので又聞きと独自解釈)仏に従えといっているわけでもなく、そもそも造物主は人間にかかわらないとする仏法や、神様なんてそんな大したもんじゃないし悪神もいる、とする神道の方が肌に合う。実は一度教会に通った時期はあるのだが、私の出した結論は「たとえ神が人間を作り愛していても、それに従う義務はない。自分は神の加護を望まない」であった。これには熱心な教徒の人達も、「それでは平田さんを説得するのは無理ですね」というしかなく、私は教会を離れることとなる。

 さて、ただ少なくとも「信じてはいないが、仮に神がいたとしても我々には手を出さないでいて欲しい」と願っている時、神社仏閣は、何かそういった造物主の手から人間を守ってくれそうな気がするのだ。これは思想的には、造物主が我々にかかわり続けているという見方に対して、そうでない世界観もあり得る、ということだからである。それ故、旅行に行っても結構そういった施設に立ち寄っている。
 御朱印と御朱印帳。上の段の三冊はエヴァンゲリオン。下の左がゴジラ。この四冊は私ので、残りの二つ(ベイスターズのD.B.スターマンと富士山浅間神社)が妻の物。右写真の袋は自作です。
 そんなある日、新宿のエヴァンゲリオン店で特務機関ネルフの御朱印帳を買った。面白いのは基督教的世界観から発生しているエヴァンゲリオンの店でこれを売っていることだが、それはともかく、ハードを買うとソフトが欲しくなるのは世の常、旅行先にはなるべく携行して出来る限り押してもらうようにしている。それまで、「信じていないものをお参りするのは却って失礼ではないか」との思いから手は合わせなかったのだが、少なくとも御朱印を頂いた時にはきちんとお参りをするようにまでなった。礼は弁えなくてはなるまい。後にゴジラの御朱印帳も手に入れ、仏教の寺に行った時はそちらを預けている。シン・ゴジラの御朱印、欲しかったなあ。でも、呉爾羅ゴジラは神道ですよね。

 ところで、御朱印を転売する向きもあるようだが、そんな私でもこれはどうかと思う。神社側から「御朱印はスタンプラリーではない」との言葉があるが、これは集合論的には正しい。何の話かというと、もしかしたらと思って検索してみたら、実はスタンプラリーの起源とは室町時代の御朱印集めにあったらしいのだ。何のことはない、「御朱印帳はスタンプラリーではない」が「スタンプラリーは御朱印帳だった」のである(人間は哺乳類だが、哺乳類は人間ではない)。赤の他人に集めてもらったスタンプラリーをお金で買っても仕方ないだろう。もちろん何にどういった価値を見出すかは自由だとしても、やはりあれは、自分でお参りしながらこつこつと集めるものだ。その過程の楽しさこそが御利益であり、価値なのだと思う。

 さて、これを書いている今、世の中はコロナウィルスにあえいでいる。苦しい時の神頼みは良くないが、人事を尽くしたら天命を待つしかあるまい。いや、むしろ人事を尽くす為のよすがとして天命を待つのか。あのお茶の水博士でさえ、爆弾探しをコバルトとアトムに託した後はやしろに額づくしかなかったではないか。
 皮肉なことに、そのウィルスが感染するのを防ぐ為の祭がウィルス故に制限されているが、致し方あるまい。とりあえずは、アルコール消毒やマスクを着けての外出をしながら、自宅の神棚に手を合わせる日々を送っている。何よりもこの、御朱印という物がある日本が好きなのだ。

既に還る道はない。新たなる百億と千億の昼と夜が始まる。