本当はその他の木管のところに入れても良かったのだが、ちょっと独立して書きたくなってしまった。
南米の楽器である。これで演奏された曲でよく耳にするのは、「コンドルは飛んでいく」、「花祭り」などの民謡、或いはアニメの「母をたずねて三千里」や「おしん」の主題曲(ともに、坂田晃一作曲)、「スターウォーズ・ジェダイの帰還」の最後で鳴る勝利の曲(ただし、リコーダーかも知れない)、最近ではポルノ・グラフテイの「アゲハ蝶」で使われていると思っていたら、テレビで演奏風景を見るとどうもシンセサイザーだったらしい。他国の民族楽器では、比較的日本に浸透している方だろう(もちろん、すべての楽器は元々は民族楽器である)。
構造としては尺八と同類で、縦笛の無簧楽器である。したがって、ただ吹いても音は出ず、唇を歌口に当てて角度や加減を調節し、音の出る箇所を見つけねばならない。更に、音の高さによっても微妙に息を変えねばならず、速い曲を演奏するのは大変に難しい(少なくとも私には)。
楽器と言うのも道具の一つであるからには、その発達には様々な試行錯誤があり、最終的に生き残った物にはそれなりの理由がある。そしてそれは、必ず「個性」と「操作性」の二つの側面の間で調和を図らねばならない。ほとんどの場合、操作性の良い道具ほどその目的に特化されているため、万能性はなくなる。ナイフは道具としての万能性は高いが、人参の皮を剥くにはピーラーの方が便利である。その代わり、ピーラーで大根は切れない。
楽器の場合、音を出し易くきちんと調律されたもの程安定しているが、代わりに自由度がなくなる。ピアノでポルタメントを出すことは出来ないし、フルートで能管の曲を演奏するのは不可能なのだ(逆は非常に難しいし不完全ではあるが、全然出来なくはない)。
全ての楽器はこの間を行ったり来たりして最終的な段階で落ち着くものであり、シンセサイザーが未だに発展途上なのは、電子工学の発達との共同作業という宿命を背負っているだけではなく、どの辺りが一番いいのかが計りかねているせいもあるだろう。つまり、余りに音色合成の自由度が高くなると使いにくくなり、逆にプリセットを増やせばシンセサイザー本来の魅力がなくなる。更に、ボタンの数なども何処が落ち着き所なのか、まだまだ先が長そうだし、或いは永久に決着しないかも知れない。
さて、ケーナは同族の尺八に比べて穴が多い。尺八は五孔で立ち止まったのが、こちらはオクターヴに合わせて穴を増やしたそうなのだ。これは音階の作り易さを意味する。当然、尺八よりも演奏は易しい。その代わり、音は前述の「スターウォーズ」の所で書いたように、リコーダーに近づいてしまう。尺八も、穴を増やしたら音がフルートに似てしまったと何かで読んだ(あくまで記憶です。何の本だったか全く覚えていないので、調べようがなくてすんません)ことがあり、この辺りが加減なのだろう。
ただ、その分取っ付き易くはなるし、値段も尺八に比べてずっと安い。この楽器は何処かの物産展だか博覧会で買ったのだが、3000円はしなかったと思う。こんな風に手彫りで装飾が施されている割には、破格の値段である。
だから、尺八はどうも、という人にも充分に挑戦の余地はある。個人的には、ケーナで下地を作っておいたからこそ、尺八の音も比較的容易に出せたのだと思う。それに、これで演奏される曲には、なかなかいいものが多いのだ。小さいので携帯性も良い。
と書いておいて、実は普段はそれ程吹いているわけでもないのであった。これは好みの問題だから仕方がない。愛着という点では、やはり能管や篠笛に敵わないのである。趣味とはえてしてそういったものだ。そしてもちろん、私の音楽は趣味の領域を出るようなものではない。